「のっつぉこぎ」考

 わたしの生まれた土地に「のっつぉこぎ」という方言がある。「のっつぉ」とは仕事もしないでぶらぶらする、遊び歩く、といったような意味で、「こぎ」とはたぶん「漕ぐ」から来ているのだろう。聞けば、いま住んでいる仙台にも同様の言い方があるらしい。ただ、そのどちらの地でも、ほとんど死語になっている。
 いずれ、野良猫か野良犬のように思われていて、いい意味で使われることはなかった。が、わたし自身はこの方言がえらく気に入っている。できたら、自分も本物の「のっつぉこぎ」になりたいと思っている。
 時間と金があれば、一年中「のっつぉ」をこいでいたい。そう願っているけれど、なかなか実現しない。時間はその気になればいくらでもつくれるが、いかんせん、懐のほうがそういかない。
 もっとも、わたしの定義によれば、「のっつぉ」にあまり金をかけてはいけない。できるだけ質素であることが望ましい。というか、質素であればあるほどいい。遊び歩くといっても、決して酒色や宴会に興ずることではないのだから。
 では、どんなものか。種田山頭火のような人物を連想する人がいるかもしれない。確かに、彼も「のっつぉこぎ」の一人に入るだろう。
 究極の「のっつぉこぎ」は、物乞いをしながら、あてもない旅をつづけることではないだろうか。けれど、いまそれをやるのは容易でない。へたに物乞いをして歩けば不審者に思われて、警察に連れていかれかねない。いや、ぶらぶら歩いているだけでも捕らえられかねない。そこで多少の路銀が必要になる。「のっつぉ」をこぐにも金がいるというのはそういうことである。いくらケチケチやっても、きょうび、まったくの無銭とはいかない。

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                  先日「のっつぉ」をこぐつもりで立ち寄った浄法寺町の天台寺

「のっつぉ」をこぐ極意は、日程も決めず目的地も定めず地図も持たず持ち金も極力少なくして、ただ気ままに旅することだろう。しかし、それも難しい。
 かぎられた路銀で歩くとすれば、ある程度の日程と方角ぐらい決めておかないといけない。でないと、しまいには素寒貧になって、帰ってこれなくなってしまう。行った先でホームレスになるのも悪くはないが、それでは「のっつぉこぎ」の道を踏み外してしまう。
「のっつぉ」には味わいがなければならない。それには精神の解放が必要だ。日々、食うためにさまよい歩くのでは、本当の「のっつぉこぎ」にはなれない。その境地にも近づけない。けっこう奥が深いのだ。

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    天台寺の十一面観音立像(国指定重文)

 そんなわけで、未だに本物の「のっつぉこぎ」になれないでいる。せいぜい、かぎられた日程のなかで無計画に歩くぐらい。それが関の山である。
 言い忘れたが、「のっつぉ」をこぐのは必ず一人でないといけない。友人を誘ってやろうなどと考えてはいけない。たいがい友人と喧嘩になって、悲惨な結末を迎える。そういう経験を、わたしは過去何度もしている。