命より原発マネーが大事か―大間原発建設をめぐって

 下北半島の北端にある大間原発の建設再開をめぐり、青森県と北海道の関係自治体が津軽海峡を挟んで対立している。2月19日夜のニュースは示し合わせたようにそんなふうに報じた。翌20日の「河北新報」は、これを次のように伝えた。

《昨年10月に建設が再開された電源開発大間原発(青森県大間町)をめぐり、「推進」を訴える下北半島の4市町村と、「凍結」を求める北海道側の6市町が19日、相次いで経済産業省に要望書を提出した。同じ日に津軽海峡を挟んだ両地域が行った要望は正反対で、関係者は「偶然が重なったのか」と戸惑い気味だ。
 宮下順一郎むつ市長や金沢満春大間町長らは菅原一秀副大臣に、核燃料サイクル政策の堅持を求める要望書を手渡した。この中で、サイクルを支える大間原発の推進を訴えた。宮下市長は要望後、「意味のある要請活動だった」と述べた。一方、工藤寿樹函館市長らは赤羽一嘉副大臣に、大間原発建設を無期限で凍結するよう訴えた。
 大間原発から50キロ圏内の人口は青森県側約9万人に対し、北海道側は約37万人。函館市は一部が事故時に避難を検討する区域(UPZ)に含まれるが、工藤市長は「事業者は地元に何の説明もなく建設を再開した」と怒りをぶちまけた。赤羽副大臣は事業者の対応に疑問を呈したという。
 函館市は工事差し止めの提訴に向け準備を進めている。工藤市長は「事故前の安全神話の中で出された大間原発の設置許可は見直されるべきだ」と強調した。
 北海道側の要望に関し、大間町の金沢町長は「各自治体はそれぞれの考えの中で進んでいる。私が批判したりできる話ではない」と述べるにとどめた。》

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            建設中の大間原子力発電所

 北海道側の言い分は明快である。
 たとえば、函館市の工藤壽樹市長。同市長は昨年10月1日の大間原発建設再開に際し、次のように主張している。
「福島では、いまだ事故の原因を究明できず、原子炉内の状況さえも把握できずにおり、終息の見込みは全くたっておりません。今現在も、16万人の人が故郷を奪われ、避難生活を余儀なくされている状況にあります。(中略)
 ここ函館は、大間原発から最短で23km、晴天時には、工事現場が見える程の至近距離にあります。大間原発の50km圏内の人口は、青森側が9万人、北海道側は37万人です。北海道の方がより大きな影響を受ける訳で、住民の不安は募るばかりです。(中略)
 大間原発は、世界初のフルモックスの原子炉ということで、その危険性が指摘されており、また、活断層の存在や海上からのテロなども懸念されるものであります。そもそも、既存の発電所で十分電力を賄っている中、大間原発は再稼働と違い新たに稼働させようとしているものであり、現時点の電力需給とも関係がありません。(中略)
 福島原発事故以前の安全神話の中で許可された大間原発の建設を、改めて見直し、検討することもなく、それを根拠にして、私達の声を全く無視し、何ら急ぐ必要のない大間原発の建設再開を強行したことは、誠に遺憾であり、到底容認できるものではありません。」(市長発表「函館市大間原子力発電所に対する対応について」)
 こう述べたうえで、工藤市長は、「今時点での大間原発建設再開は到底受け入れがたく、住民の安全安心と地域を守るために、今後も無期限凍結を求めてまいります」との立場を表明している。今回の「要請書」もおおよそこの内容を踏襲している。「脱原発」「原発建設反対」とはっきりと言わないもどかしさはあるが、筋道は通っている。

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            六ヶ所村にある再処理工場

 これにたいし、青森県側はどうか。
 むつ市、六ケ所村、東通村大間町の首長、議会議長が同19日、経済産業省に出した「要望書」の主旨は上記の「河北新報」が報じたとおり。サイクルを支えるために大間原発の建設を推進してほしいなどと言っているが、要は、原発・核燃施設を立地している地域の事情を汲んでほしいということ、有り体にいえば、施設の立地によって得られる金が滞ることのないようにしてほしい、ということである。建て前を言って本音を斟酌させるという手だが、筋も道理もあったものではない。まして、福島第一原発事故への省察もなければ、国や電力の原発政策に乗ってきたことへの反省もない。あるのは、原発マネーへの執着だけである。
 報道によると、宮下順一郎むつ市長などは、応対した菅原経産副大臣に、4市町村が「ぶれずに国策に協力してきた」ことを強調して、サイクル政策の継続を求めたという。ようするに、国策に協力してきたのだから国はそれに見合ったもので報いろ、ということだ。
 こうしたもの言いは、原発立地地域の首長や議会筋に等しくある。昨年取材で会った越善靖夫東通村長もそうだった。
 その東通村長、原子力規制委員会の調査団から「敷地内断層は活断層の可能性が高い」との報告書案を示されて、「拙速な議論ではなく、事業者や過去に携わったさまざまな人の意見をもっと聞いた上で、国民、地域が納得できるような進め方をしていただきたい」(2/20付「東奥日報」)と述べたという。原子力規制委員会の評価など認めたくない、という本音が見えみえだが、ここにも福島第一原発事故から学ぼうという謙虚な姿勢はうかがえない。

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            東北電力東通原子力発電所

 いったい、彼らは原発をどのように考えているのか。参考までに、『原発ドリーム-下北・東通村の現実』の取材で東通村長とやりとりしたときの一部を、少々長くなるが紹介しておきたい(同書より引用、敬称略)。

北原 福島第一原発事故以降、国内で「脱原発」の声が高まっている。原発立地の首長のなかからも、たとえば東海村村長のように「脱原発」を主張する人で出ている。東通村長として、それをどう受けとめているのか?
越善 日本の置かれている立場、なぜ原発が必要なのかしっかりとわかってもらうことが大事だ。すぐ再生可能エネルギーができるのか? 原発なしで電源確保ができるのか? しっかり議論してほしい。車だって事故を起こす。冷静な議論がほしい。
北原 原発は完成された技術ではないと思うが?
越善 私は科学者じゃない。そのことについては何も言えない。私は政治家として村をどうするか考えている。40年前に議論していまに至っているのだ。福島の事故が起きたからといって、何か大きく変わっていくということはない。
北原 福島の事故はなぜ起きたのか。それについてどんな認識を持っているのか?
越善 まず、国がなぜ起きたのかしっかり検証することが先決で、その結果を国民に知らせていくべきだ。
 国が再稼働を進めているというのは、ある程度津波が原因であると考えているからではないか。私も津波がいちばんの起因だと思っている。
北原 東通原発は大丈夫だと?
越善 東通原発は安全だ。危険を感じていない。ただし、われわれは安全面とか技術面とかは素人だ。国が科学的にしっかりとした対策を講じて、そのうえで認可を出しているわけだから、そしてそれにもとづいて進んでいるのだから、私から云々できない。
北原 福島の原発事故後、下北の首長、商工会の対応は素早かった。背景に村や町の財政問題があるからではないか?
越善 40年前、雇用問題などさまざまな議論をして誘致を決めた。国策に協力しているという自負もある。
 福島の人たちは気の毒だと思うし、二度と起きてほしくない。しかし、現実の問題として東通には原発がある。国はそれについて早く指示を出してほしい。しかるべきノウハウを持っているわけだから、再稼働すべきかどうか、ストレステストが必要ならすべきだし、早く精査して早く結論を出してほしい。そういうことで対応してきた。
 国策に協力してきて、何ごともなく来て、突然事故が起きたからといって(止めろとなったら)いままで何だったのかということになる。

 これは昨年5月のときのものである。事故後一年ちょっとしかたっていないこともあって原発事故への一定の配慮をにじませているが、一方で、東通原発を早く再稼働してほしいという本音も隠そうとしない。同村長は、このあともしきりに「国策」という言葉を持ち出し、原発再稼働か、さもなければ「国策への協力」に見合った援助を、と国に求めているのである。
 原発マネーは立地地域の首長や議会を物乞いにしてしまう。
 彼らの発言を聞いていると、わたしにはそんなふうに思えてくる。善意に考えれば、財政難に苦しむ辺地をなんとか再生させたい、ということかもしれない。しかし、だから仕方がない、とはならない。
 たとえ困難であっても、命と引き替えてまで、危険な原発などに手を出すべきではない。もっと知恵を出し合って、新しい再生の道を進むべきではないか。わたしはそう考える。
 先のルポ『原発ドリーム』では、そのことについても言及した。千葉大学大学院の倉阪秀史教授が提唱する「永続地帯」という視点からの分析をもとに、僻地にこそ持続可能な社会への条件が備わっている、という根拠も示した。
 倉阪教授の調査によると、たとえば東通村では、太陽光や風力などの再生可能な地域エネルギーの自給率は478.2%、食糧の自給率は189%にもなっている。同じく六ヶ所村でも、再生可能な地域エネルギーの自給率は263.9%、食糧の自給率は178%にもなっている。(『永続地帯2011年版報告書』)。言い換えれば、東通村六ヶ所村も、自給自足できるほどの再生可能なエネルギーと食糧に恵まれているということである。
 もちろん、この数値をもってすぐ両村が自立できるということではない。「永続地帯」はあくまでもその区域の持続可能性について指標化したもので、そのまま住民の経済活動や当該自治体の財政活動まで担保するものではない。だとしても、自立への可能性は指し示している。
 エネルギーと食糧は人間が暮らしていくうえでなくてはならない基本的資源、基盤である。その基盤であるエネルギーと食糧がその区域内で必要とされる量だけ調達できるかどうか。これはきわめて重要な意味を持つ。したがって、これらが自前で確保できるということは、少なくともその区域では、将来に向けて持続可能性が確保されているということになる。ここに依拠してその区域、町なり村なりの将来を創造的に構想していくことはきわめて有効なことである。「永続地帯」はその構想の端緒、基礎になりうるだろう。
 同ルポでは、このほかにも、自然エネルギーを活用してまちの再生をめざしている岩手県葛巻町を取りあげ、文字どおりの「ないないづくしの町」がどのようにして持続可能な、かつ住みよい町へと進もうとしているのか、また進みつつあるのか、その貴重な実践例も紹介している。すでに本の内容に踏み込んでいるのでこれ以上は触れないが、興味のある方にはぜひお読みいただきたい。

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       グリーンパワー葛巻風力発電所(葛巻町提供)

 原発と人間は共存できない。原発との共栄共存など幻想でしかない。これが、先の取材をとおしての実感であった。
 わたしはこのルポを次のように締めくくった。

《この取材をとおして私が明らかにしたかったのは、過疎と貧困に喘ぐ自治体がなぜ原発の誘致に夢中になるのか。その結果、その町、村にどんな問題が生じたのか。さらに、そこから脱却する道はないのか、であった。これを、主として青森県下北半島にある東通村を焦点にして考えてみた。
 見えてきたのは、原発マネーが自治体の行財政を著しく歪めるということだった。原発マネーは依存性が強く、一旦手を染めるとそれなしでは身動きできなくなるほど自治体をがんじがらめにしてしまう。その結果、自治体は本来の自主性を失い、いっそう原発への依存度を高めていく。そういう悪循環を辿る。
 そこから脱するのは容易ではない。しかし、いまがそうであっても、またどんなに困難があろうとも、命と引き替えて、見せかけの「豊かさ」のなかにいるべきではない。
 事故が起きれば「豊かさ」どころではない、あらゆるものが失われる。その損失の大きさに比べたら、原発から抜けだす道を選ぶほうがはるかにやさしい。端緒ではあるがその実例はあるし、示した。
 めざすべきは、自然と人間というかけがえのない資源を活かした社会である。その資源を活用しそれによって資源が永続するという、持続可能な社会である。私たちに必要なのは、それを実現させるための知恵と行動力である。
 原発への依存をやめ、再生可能エネルギーに依拠した持続可能な社会をめざす。それは可能である。またそれ以外に、まちの再生も私たちの未来もない。》(「あとがき」より)

 3.11からまもなく2年になろうという今日、わたしはあらためてこのことを強く思う。