のっつぉこいで清水寺

 少し前になる。花巻市郊外の一軒宿の温泉に泊まった翌朝、例の「のっつぉこぎ」の性がでて、できるだけ幹線道路を通らないで仙台の自宅に帰ることになった。田舎道を選んで、ともかく南南東方向に進もう。方角さえ誤らなければ、いずれ目的地に着くはず。そう考えて当てずっぽうに走った。
 が、案の定、途中で道に迷った。カーナビはあったが、それに頼るのもしゃく。いや、「のっつぉこぎ」の名が廃る。で、「道はみなつながっている」と山勘で走った。
 その途上だった。「清水寺」という寺が目にとまった。あの京都の寺と同じ寺号だ。その名に惹かれ、ちょっと寄ってみた。
 なにやら由緒ある寺らしかった。「縁起」を見ると、大同2年(807年)に征夷大将軍坂上田村麻呂の勧請により創建されたと伝えられる、とある。花巻周辺ではよく知られた古刹のようで、京都の清水寺と並ぶ「日本三清水」の一つだという(もう一つは兵庫県にある清水寺だそうだ)。「日本三清水」とは初めて知ったが、京都の寺と並ぶ三つのうちの一つで山号も同じ「音羽山」だと聞けば、なんとなくありがたい寺に思えてくる。
 実際、山門はその名に恥じずすばらしかった。大きな銅板葺きの屋根を戴いた二層のその建物は古めかしく、しかし、どっしりとした風格があった。山門の左右には大きな仁王像が立ちはだかっていて、楼上には奥州三十三観音霊場の観音像が安置されている(という)。

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   自分で撮った写真を誤って削除してしまいWikipediaから借用した

 この山門をくぐった先に、寺の本堂でもある観音堂がある。堂は五間四面の銅板葺きで、なかに入ると正面祭壇前に大きな十一面観音が立っている。本尊は祭壇内にある観音の胎内に納められている十一面観音だそうだが、秘仏だということで拝観できない。
 境内には石造りの観音像がいくつか立っている。古い像は近づいてよく見ないとそうだとわからないが、いずれも十一面観音である。なるほど、ここは密教の寺なのだ。正確には、第5代天台座主・智証大師円珍を宗祖とする天台寺門宗天台宗寺門派)に属する寺。総本山は滋賀県大津市にある園城寺三井寺)である。この園城寺にも、檜一本造り、像高80センチ余の十一面観音立像(重要文化財)がある。
 十一面観音は仏像のなかでもどこか身近に感じる。それはたぶん、観音像が持つ十一面の、そのなかにこめられたものから来るらしい。
 そのことについて、以前、旧ブログに書いたことがあった。東日本大震災の一ヵ月後に書いたものだが、ついでだから、ここにその一部を再録したい。

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 ひっきりなしに余震が襲ってくる。それもかなり大きいのがあって、震度4とか5弱なんてのもある。それでも、地震慣れなのか開き直りなのか、少々のことで驚かなくなった。が、反面、どうにもやりきれない感情にとらわれる。揺れるたびに、揺すられるたびに、気分の重たい部分が胸底にどんどんと溜まっていくようなのだ。ある種のうつ状態と言ったらいいか。もちろん、大震災を経験してのこと、重い気分に陥るのはわたしだけではあるまい。
 そんな気分を紛らわせようと、白洲正子の『十一面観音巡礼』(新潮社)を手に取った。六、七年ほど前に買ったもので、どこに押し込んでおいたのか、あることさえ忘れていた。
 対面することになったのは、皮肉にも3月11日の地震のおかげだった。あの地震で家の本棚の本も見事に崩落した。それを片づけていて、偶然に見つけた。
 これ以外にも、忘れかけて再発見したような本がいくつかあった。しかし、それらのなかからこの本を手に取ってみる気になったのは、表紙の写真のせいだった。

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 表紙の写真の像は、奈良県桜井市にある聖林寺の十一面観音像である。この写真にひどく惹かれたのだ。
 聖林寺の十一面観音像は仏身が209.1cmの、天平時代を代表するといわれる国宝の仏像だ。その姿態、表情の豊かさから、これまで多くの写真家を虜にしその被写体になってきた。わたしも、いろいろな本で彼らの撮った写真を見てきた。
 ただ、それまでわたしが目にしたものは、これを除けば全部正面から撮ったものばかりだった。もちろん、それも、本体がそうなのだからすばらしいに決まっている。しかし、横から撮ったこの写真はそれらとは比べものにならない、身震いするくらい美しく感じた。なのに忘れてしまっていたのは不覚だったが、改めて眺めてみて、ため息が出た。撮影したのは小川光三だった。
 白洲正子は十一面観音像にこだわり、大和から近江、京都、若狭、美濃、信州へと寺々を回った。それがこの本になった。聖林寺の十一面観音はその冒頭にある。
 それによると、初めて聖林寺を訪ねたのが昭和七、八年のことで、そのときは粗末な板囲いのなかに入れられていたそうだ。白洲は差し込んでくるほのかな光りのなかに浮かび上がってくるその像を見て、世のなかにこんな美しいものがあるのかと茫然と見とれた。そして、あろうことか、自分の手で像の羽衣の裾に触ってみた。いまでは考えられないことだが、そのころは大らかだった。だいたい、土地の人にして「お地蔵さん」ぐらいにしか思っていなかったそうだから、さもありなん。
 聖林寺の十一面観音像と並び称されるのが渡岸寺(滋賀県長浜市)の十一面観音像だ。白洲はこの観音の頭上の変化面、そのなかの暴悪大笑面に注目する。頭の真後ろにつけてあるこの暴悪大笑面は悪を笑って仏道に向かわせる方便ということだが、白洲は気味の悪い笑いは悪魔の相以外のなにものでもないと言い放ちつつ、作者の独創力をたたえている。
 思うに、それは表情の生々しさというか、生き生きとしたところにあるのだろう。観世音菩薩は衆生済度の身で、完全に仏の境地には達していない、いわば人間と仏の中間にいる身なのだそうだが、そういう世俗的なところが、観世音菩薩、とりわけその変化身である十一面観音の魅力なのかもしれない。
 実は、この渡岸寺の十一面観音像、平安時代前期、貞観時代の作だとされている。そしてこの貞観時代に、今度の大地震と同じくらい大きな三陸地震があった。
 だからどうだというわけではない。ことさらに、二つを結びつけるつもりもない。ただ、十一面観音が天地の中間にあって衆生を済度する菩薩なのだということを聞けば、にわかに退けるわけにはいかない感じもしてくる。
 しかし、どうであれ、この聖林寺と渡岸寺の十一面観音像には、荒ぶるものをおさえ、人の心を穏やかにしてくれる不思議な力が備わっているように思える。信仰心のまったくないわたしだが、これだけは否定しようもない(2011/04/19)。

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 清水寺を発ってからも「のっつぉ」はつづいた。結局、家に着いたときは日が落ちていた。まっすぐ帰れば、高速道路を使わなくても昼前には着く距離だった。