大震災から7年、被災地で。

 3月11日から4日間、震災7年目を迎える東北地方太平洋沿岸をめぐった。震災の翌年、同じ時期に被災地を訪ねようと決めてから、毎年欠かさずつづけている。もっとも昨年ばかりはいつもと違い、釜石市と後日まわった福島県だけになった。釜石市内で乗用車が大破する自動車事故を起こし、その先の計画を断念せざるを得なくなったためだ。そういう意味では、釜石と福島県沿岸部を除けば2年ぶりの訪問になる。
 つづけているのは、取材とかいった、なにか明確な目的があってのことではない。あまり自覚していないが、単にまわってみたい、強いて言うなら、震災のあった同じ時に被災した同じ地に立っていたい、そんな内発的な感情からだろう。それに、犠牲者への追悼の意味も加わっているかもしれない。いずれにせよ、同じ時期に同じ場所にいることに意味があって、それ以上でもそれ以下でもない。
 短時日岩手県宮城県福島県(一部茨城県北部を含む)の沿岸をまわるのは無理がある。あらかじめ行く地点を決めていても、一箇所にとどまる時間は限られる。したがって、そこに行ったからといって、被災地や被災者の現状を深く理解するというふうにはならない。せいぜい、その場所その場所の風景とそこにいる人々の姿を眺め心にとどめおく、といった程度。どちらかというと、そのときの自分の気持ちの有りようを確かめるといったようなものだ。でもいまは、そうした行為と感情を大事にしたいと思っている。
 ひとつだけ感想めいたことを言えば、「復興」の進み具合が土地土地によって大きな開きが生じているということだ。津波で倒壊したビル(多くは集合住宅や校舎)が撤去されず、そのまま残っているところもある。そうした「復興格差」が、年々、拡大してきているように感じる。
 たとえば岩手県陸前高田市。ここは、いまだかさ上げ工事の途上にある。しかもいつになったら工事が完了するのか、不安をおぼえるくらい見た目にも進んでいない。仮に完了したとしても、果たしてかつての住民が戻って来るのか。それすらも、想像するのが難しい。
 陸前高田は被害が甚大で、そのことの影響が大きいだろう。が、それだけではあるまい。というのも、同様に被害の大きかった宮城県女川町では、中心部のかさ上げ工事がほぼ終了し、JR駅前を中心にした商業地が形成されて、それに誘発されるようにして他の商業施設も次々と戻り始めているからだ。
 その違いは何なのか。女川町の場合、巨大防潮堤の建設をやめ(高さを4.4メートルに抑えた)、かさ上げ工事も一律にするのではなく目的に見合った形で適正化した。しかも、当初から住民主体のまちづくりをめざした。そのことが功を奏している、という指摘もある。たぶん、そうなのだろう。
 しかし、進んでいるところも遅れているところも、「復興」事業が困難なことに変わりはない。なかでも東京オリンピックの影響が大きく、厳しさにいっそう拍車をかけている。資材の高騰に加え、人手も圧倒的に足りない。建設機械は思うように動かせず、ダンプカーは高齢者に運転させなければならない。そんな状態が至るところで起きている。福島にはさらにべつの問題がある。
 被災者は避難先にとどまるべきか、郷里に帰るべきか、決めることもできず宙ぶらりんでいる。それを、一自治体の責任で片づけるわけにはいかない。

           ★

 被災地をめぐっていて、印象に残ったことがある。
 宮城県雄勝町石巻市)から女川町に抜ける狭い山道を走っていたときだった。前を走っていたダンプカーが後ろについていくこちらの車に気づいたか、ふと道端に自車を寄せて止まった。道を譲ってくれたのだ。ずいぶんマナーのいい運転手だなと思ってさらに行くと、またダンプに接近する。するとそのダンプもまたさっきと同様、脇に寄って先を譲る。女川町に着くまで、そんなことが何度もあった。
 たぶん、管理者からそのように指導されているのだろう。しかしそうであっても、工事を少しでもはかどらせようと急かす現場でのこと、実践するのはなかなか難しい。いや、仮に指導にしたがっただけだとしても、運転手の心根の優しさを感じずにはいられなかった。車の寄せ方、ハザードランプでの合図、対向するダンプのふるまい、その一つひとつに彼らの心情が表れているようだった。
 今回、それがなにより嬉しかった。

 

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                   大槌町

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                 釜石市鵜住居

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                  陸前高田市

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                  南三陸町

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    女川町(撮ったつもりが撮ってなくて、女川町観光協会HPより借用)

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                2011年当時の女川町

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                2016年当時の女川町

 

 

 

 

あけましておめでとうございます

 ことしも静かに新しい年を迎えた。仙台にいたときは毎年元旦から親戚一同が集まり盛大な酒盛りで始まったが、益子に越してからは、娘たち家族を含めたごく身内だけのささやかな正月になった。これもいい。
 2日のきょうは、飲むのにも飽いて、下の城内坂を流して歩いた。たいがいの店が開いていて、大勢の客で賑わっていた。駐車場を見ると、関東から甲信、南東北の車が多い。なかに仙台ナンバーの車を見つけて、思わず懐かしさがこみあげてくる。移住して1年8ヵ月。気持ちはまだ仙台の人間のようだ。
 2ヵ月ちょっとすると、またあの日が来る。もうすぐ7年目か。そう振り返りつつ、震災の報道が日ごと減っていくのを感じて、悲しくつらく思っている。
 一方で、東京オリンピックの報道は過熱していくぱかり。しかも、政府がやることも企業がやることも、なにもかもがオリンピックに結びつけられて、この国はオリンピックのために動いているのかとさえ思われて、いささか不愉快な気分に陥る。
 いちどメデイアは、建設ラッシュに沸く東京と、工事が滞って重機も休止状態にある震災被災地の現場を、絵入りで並べて報道してみたらいい。そうすれば、被災地がいまどれだけ差別されているか、わかるはずだ。くわえて、被災地に行っては勇ましいことを叫んで恥じない、この国の権力者の鉄面皮ぶりも、はっきりするだろう。
 国を挙げてそんな状況のなか、たいへんなのを承知で、自分なりに被災地、被災者のことを語っていく。たかだか声の届くところがかぎられても、その思いを必ず届けていく。そういう一年にしたい、と決意している。

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          庭先から見たきょうの日光連山

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              きょうの城内坂

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            訪れる人もない近所の神社

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              坂上のわが家

 

 

 

 

今朝の益子

 いろんなことがあって、でもなんだか未消化のままついに年の瀬を迎えてしまった。来年はもっと増しになるように、とはいつも思うことだけれど、結局、同じことを繰り返しているようだ。それでも、切羽詰まって、「来年こそ」と念じる。
 今朝の益子は零下7度だった。日中は比較的暖かくなるが、夕方6時ごろになると、再び零下になる。仙台の気候に慣れた身体には、朝晩の寒さがこたえる。
 朝、ゴミを出そうと外に出たら、庭先から雪を戴いた日光連山が見えた。いちばん高いのが、たぶん、男体山だ。標高は2484メートル。それを写真に収めたが、どうも写りがよくない。
 ついでに、今朝の城内坂も撮ったので紹介。写真を見ても、やはり寒そうに感じる。

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100回目を迎えた 益子町「秋の陶器市」始まる

 恒例の「秋の陶器市」が始まった。今回はちょうど100回目に当たるそうで、記念の行事もいろいろと企画されている。天候もよく、3日のきょうはいつになく人出も多い。期間は、2日から6日まで。

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 わたしも祭り気分で、見物もそこそこに近くの居酒屋でもつ煮で一杯。

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仄暮れて 盛るヘチマに 頭垂れ

 庭の垣根に植えた白樫の一本に夏の初めごろから蔓が生えてきて絡みつき、放っておくうち、花が咲いて実がなった。その実がどんどん大きくなって、またたく間に30センチ近くまで成長した。キュウリにしてはずいぶんと大きいし、太い。
 調べてみると、どうやらヘチマらしい。植えたわけではないし、種子がどこからか飛んできたか。あるいは、犬や猫が運んできたか。
 それにしてもこのヘチマ、呼ばれもしないのに他人の家に勝手に上がり込んで主のようにふるまうならず者のよう。なんともふてぶてしい。そのくせ、無防備でどことなく間が抜けている。そのちぐはぐさが面白い。せっかくだからこのまま成熟を待ち、いずれタワシにでもしようか。

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 つまらないもの、取るに足らないものにたとえられるヘチマだが、秋の季語でもあって、古くから句の題にされて親しまれてきた。なかでも正岡子規はとくべつで、ヘチマにまつわる句をたくさん詠んでいる。絶筆となった3句もやはりヘチマの句で、それが縁で彼の忌日(9月10日)は糸瓜忌と呼ばれている。
 その3句がこれ。
  糸瓜咲て痰のつまりし佛かな
  痰一斗糸瓜の水も間に合はず
  をとゝひのへちまの水も取らざりき
 子規は肺結核だった。

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      正岡子規肖像(国立国会図書館より)

 ついでに、他の俳人文人のヘチマを題にした句を3つ、4つ。
  堂守の植ゑわすれたる糸瓜かな      与謝 蕪村
  長けれど何の糸瓜とさがりけり      夏目 漱石
  取りもせぬ糸瓜垂らして書屋かな     高浜 虚子
  けふはおわかれの糸瓜がぶらり      種田山頭火