厄除けに寝床で落語を聴く

 集団的自衛権の行使だの安保法制だのと「戦争する国づくり」へ猛進する安倍政権と、その政権の脅しにおびえて批判精神を失ったテレビ報道に、腹立たしさと苛立ちがつのる。それが日ごと昂じてきて、このところひどく寝付きが悪くなった。そればかりか、ようやく眠れたと思っても、いきなり軍服姿にちょびひげを生やした当の安倍首相が現れて、例の早口でなにやらわめき散らす始末。睡眠ははかなくも破られる。それがまた腹が立つ。
 そんなわけで、せめて寝るときぐらいと、厄除けに寝床で落語を聴いている。ところが、そのまま眠るつもりがかえって目が冴えてしまい、困っている。
 これまでに買い集めた落語のCD、DVDが三十数枚ある。演目にするとゆうに百を超える。これを、繰り返し聴いている。もうたいがいの噺は頭に入っているが、何度聴いてもあきることはない。それどころか、聴くたびに新鮮に感じる。
 CD、DVDには、同じ演目を違う噺家がやっているのがある。たとえば、小三治と可楽の「うどん屋」とか、志ん生と小さんの「時そば」とか、志ん生小三治の「千早振る」とか。いずれもよく知られた噺だが、これを聴き比べるのがまた面白い。同じ噺でもまるで別物のようで、噺家によってこうも趣が違うのかと感心させられる。
 先日も、志ん生小三治の「千早振る」を聴き比べた。「千早振る」は、先生と呼ばれる隠居が無学なおやじに百人一首にある在原業平の歌の意味を聞かれ、知らぬとは言えず無理なこじつけで解釈してみせるという噺。知ったかぶりの隠居とそれに突っ込みを入れるおやじのやりとりが滑稽で、思わず吹き出してしまう。

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 小三治の噺はまくらから落ちまで、じつによく行き届いていてメリハリが利き、はちゃめちゃな話なのに妙に説得力がある。ところが、志ん生となると、噺そのものが出てくる隠居のようにいい加減で、酒を飲みながら出まかせを言っているのではないかと思うほど頼りない。が、すこぶる温かい。でたらめを並べる隠居がどうしようもなく愛すべき人間に思えてくる。
 同様のことは小三治と馬生の「笠碁」にも、あるいは小三治と可楽の「うどん屋」にも言える(馬生の「笠碁」は絶品)。
 たとえば「うどん屋」。小三治の噺は切れ味がよく、まさに江戸の噺といった趣きがある。一方、可楽のほうになるとちょっと緩い、というか、とぼけている。そこにまた、なんとも言えないおかしみがある。
 この可楽には「らくだ」という噺もある。これは死骸の入った棺桶を担いでまわって金をせしめるという話で、上方落語松鶴が得意としていた演目だ。
 その松鶴の噺は身震いするほどすごみがあった。それが可楽になると、せりふまわしにもあるのだろう、どことなく間が抜けていて、すごみのなかにほのかなおかしみが漂う。松鶴の噺のうまさはだれもが認めるところだが、可楽の噺もなかなかに捨てがたい魅力がある。

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 一体に、わたしは可楽のようなタイプの噺家が好きだ。もちろん、小三治のように計算された抜かりない噺も悪くはない。が、どちらかと言えば、可楽のようなまったりした雰囲気と話しぶりのほうが性に合っている。
 可楽のそういう雰囲気は生まれながらのものなのか。あるいは、育った環境のなかで身に付けたものなのか。いずれ、一生懸命稽古をしたからといって出せるようなものではないように思う。おそらくそれは長い人生経験のなかで培われるもので、人間の味、滋味といったようなものだろう。それが自然とにじみ出てきて、深い味わいのある噺を生むのだろう。
 落語にかぎらず、人間のなすことはすべからくそうかもしれない。人品が怪しいと、考えることも、言うことも、やることも怪しくなる。例をあげればわが国の政権の長がそうで、憲法を屁とも思わないそのふるまいからは品格も人間性も感じられない。
 そのおぞましい姿がテレビに頻繁に映るからたまらない。おかげで眠れなくなるし、かろうじて眠れたとしても夢に起こされる。
 その責任は権力におもねる放送局の側にもある。ならばテレビなど観なければいいのだが、観なければ彼らの動静もわからなくなる。そこが悩ましい。
 仕方なく、ささやかな抵抗だが、悪霊払いのお札代わりに落語を聴くことになる。そしてまた、眠れなくなる。その繰り返し。
 これを解決する方法はただ一つ、悪霊を取り払うしかない。

Myカップ展 in 仙台・秋保「木の家」のこと

 Myカップ展~300cups collection~と銘うった展示会が、仙台市秋保の「木の家・秋保手しごと館」で開かれている。地元工芸作家を対象に毎年この時期に開かれている企画展で、今回は地元以外からも何人か参加、栃木県益子町で焼き物をつくっているわが娘(成井ふみ)も出品している。
 ということで、その宣伝。それ以上でもそれ以下でもありません。

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 期間は4月17日(金)から5月12日(火)まで。ちょうど新緑の季節。近くまで行かれたら、ぜひ足を運んでみてください。(親ばかで恐縮です)
 秋保「木の家」のホームページはこちらから。

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夢に見る震災はなにを語るのか

 変な夢を見た。
 郷里の石巻のどこかはわからない、しかし懐かしいと感じるらしい場所の、いまはがれきの原となったところにいた。その一角だったかに、少年時代の仲間たちが集っていた。なかに、いまも交流がある友人が二人いた。
 その一人が手招きをする。うれしくなって近づいていく。と、不意に何者かに阻まれる。それを払いのけ必死になって近づこうとするが、阻止しようとして広げられた手が壁のようになって立ちはだかる。その壁がひどく絶望的で、なすすべもなくただ立ち尽くす。そんな夢だった。
 これがなにを意味するのかわからない。が、なんとなく感じることはある。

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     震災まもない石巻の旧北上川河口付近(日和山から)

 先の大震災では地震の恐怖を体験した。津波は直接体験していない。体験はしていないが、直後から被災地をまわり、惨状を見、被災者のさまざまな声を聴いて歩いた。そのいくつかはルポに書いた。
 もちろん、書き切れなかったことがたくさんあった。それがいまも、抱えきれないほど残っている。これがあるとき、夢となって出てくる。
 仕事や私的な旅で沿岸の町をめぐることが少なからずある。そのおり、そこに宿を取ることも多い。ところが、震災後、海岸沿いに泊まるのが怖くなった。きっかけは、秋田県山形県の県境に近い、ある旅館に泊まったときの体験だった。
 宿のすぐ下は日本海で、背後には羽越本線が通っていた。その晩、海に沈む夕日と手作りの魚料理にいつになく酒がはかどり、酔いの勢いで早めに休んだ。

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      そのときに宿の部屋から眺めた日没後の日本海

 明け方のことだった。眠っていて、それまでまったく気にならなかった波の音が妙に大きく聞こえた。そこにどういう企みか、低く重たい唸るような音が重なる。海鳴りか地鳴りのような不気味な音。直後、黒く泡立つ巨大な塊が迫ってくる。その恐ろしさに、声にならない声で「わー!」と叫ぶ。一方で、夢心地に、津波ではないとも思っている。が、切迫した恐怖はそれをも押しつぶす。
 その恐怖に弾かれて跳び起きる。そして、覚醒した目で薄暗い部屋を見まわし、やや経ってようやく、音の源が羽越本線を走る一番列車だと気づく。そういう体験だった。
 以来、特別な場合をのぞいて海辺の宿を取らなくなった。仕方なく取るときは不眠を覚悟した。
 直接津波を(原発事故を)体験していなくても、体験した人たちの話を聴きためていくうち、あたかも実体験したような感覚にとらわれることがある。それが何度も再現されていくと、やがて心に深い痛みとなって遺っていく。それは、命を脅かすような強い肉体的、精神的衝撃を受けることによって生ずるトラウマに似ている。あるいは、精神科医が大勢の患者の訴えを聴くうち、しだいに自身も心を病んでいくのに似ている。
 現実に、自分の身に起きていることはそこまでひどくはない。しかも、特別の条件が重なったときにかぎられている。それでも、そのときどきに、震災によって引き起こされる出来事の恐ろしさをしたたか味わわされることになる。
 近ごろではそれを、震災のことが記憶から遠のいていくことへの被災者、犠牲者からの戒めなのだろう、と思うようになった。そう考えると、なんとなく落ち着く。それでも恐怖はなくならないが、その恐怖もまた創造への新たな力になるはず、と都合よく受けとめることにした。すると、少しは前向きでいられる。

老人が手紙にこめた「窓あけて窓いっぱいの春」

 3.11大震災の津波被災し、いまも釜石市鵜住居仮設住宅に暮らしている老人から手紙が届いた。手紙には先日訪ねたことへの礼に加えて、「窓あけて窓いっぱいの春」という山頭火の句が書き添えられてあった。
 手紙はうれしかった。が、一方で、東側を山に遮られて朝日が届かない、彼自身、日当たりが悪くて住みにくいとぼやく仮設住宅での生活を思い、添えられた句に妙な引っかかりをおぼえた。
 句をそのまま素直に読めば、ようやく春めいてきて身も心も晴れ晴れとしている、ととるのが自然だろう。けれども、老人とその妻の暮らしぶりを多少でも知っている者には、それが逆の意味合いに響いてきてならない。そこが引っかかった。結局、そういう両義的な思いがこめられているに違いないと受けとめたが、それでもなお、老人の気持ちはやはり後者に傾いているのではないかという気がして、少々憂わしくなった。
 山頭火の『草木塔』に収められているこの句は、「孤寒」のなかの、母の四十七回忌に寄せた句につづく連にある。その部分を引用してみる。

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 うどん供へて、母よ、わたくしもいただきまする
 其中一人いつも一人の草萌ゆる
 枯枝ぽきぽきおもふことなく
 つるりとむげて葱の白さよ
 鶲また一羽となればしきり啼く
 なんとなくあるいて墓と墓との間
 おのれにこもる藪椿咲いては落ち
 春が来たいちはやく虫がやつて来た
 啼いて二三羽春の鴉で
 咳がやまない背中をたたく手がない
 窓あけて窓いつぱいの春
 しづけさ、竹の子みんな竹になつた
 ひとり住めばあをあをとして草
 朝焼夕焼食べるものがない

 山頭火の母は彼が10歳のとき(1892年―明治25年)、井戸に身を投げて死んでいる。山頭火は14歳のころから句作を始め、長じて俳句誌への投稿をおこなうようになり、やがて自由律の句にたどり着く。酒造場を営んでいた実家が破産したのは、それからまもなくのこと。山頭火が34歳のとき(1916年―大正5年)で、結果、父は行方不明になる。そこに追い打ちをかけるように、弟までもが自殺する。
 1923年(大正12年)、山頭火は関東大震災に見舞われて熊本市に逃げる。その逃げた先で不始末を起こし、それがきっかけで寺男となり、翌年、得度する。しかしそれもつかの間、一年後には寺を出ると、雲水姿となって各地を放浪、句作をつづけるようになる。
 前記の句が詠まれたのは1938年(昭和13年)のころで、ちょうど日本が日中戦争に突き進んでいく時期と重なる。「孤寒」の前に「銃後」の句があり後ろに「旅心」の句が置かれているのも、そうした時代を反映してのことだろう。
 そんなことを考え、あらためて「窓あけて」と一連の句を並べ読んでみると、これを引用した老人の心の在処がわかるような気がする。単純に、春めいて心が開いていく、というふうには受けとることができない。そしてそれは、彼ひとりだけではあるまいとも思う。
 手紙には、ある国際交流団体の機関紙に寄稿した老人の一文のコピーが同封されていた。そのなかで彼は、貞観地震津波をはじめとするこの地方を襲った津波を古いほうから順に並べ、そこに自身とその祖先にかかわる出来事を記している。即ち、明治三陸津波(1896年―明治29年)では祖母ひとりが生き残り、昭和三陸津波(1933年―昭和8年)では祖父母、父母、幼児3人、胎児の計8人が生き残り、今回の津波では夫婦ともに山中へ逃げて助かった、と。
 これには説明がいる。つまり、明治三陸津波では当時17歳だった祖母を除いて、養蚕業を営むその父母と家族、手伝いの者全員が亡くなったが、その教訓から家を高台に建てて以降は、度重なる津波の襲来にもかかわらず誰ひとり犠牲者を出さなかった、というのである。彼はそして、これらの地震の間隔がそれぞれ37年、78年あったことをあげ、「天災は忘れたころにやってくる」という警句には自分の体験から承服しかねる、とやや強い調子で述べている。
 コピーがどういうわけか途中で切れていて、全体の意図がよくわからない。が、裏に、今度の津波で大勢の人々が亡くなったことへの、持っていき場のない憤りと悲しみがあるように感じられてならない。備えていたつもりであっても自然の猛威にはかなわなかったし、備えが不十分だった人たちは今回もまた犠牲になってしまった。でもそれは、「忘れていた」からではない。知っていたけれども、自然の力を軽んじていたからだ。それが老人には腹立たしくて無念でならない。そのやるせなさが、「窓あけて」の句の引用にこめられたのではないのか。
 老人と彼の連れ合いの暮らしぶりを想像すると、どうしてもそんなふうな考えに行き着く。もしかすると、それは自分の心に宿しているものの反映なのではないかとも思うが、それならそれで、ちょっと救いがたいような気がしてくる。

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 そんな気分で、「きょうは4月中、下旬の陽気になる」という天気予報につられて仕事部屋から外に目をやると、晴れわたった空の下、うらうらとした春の光があふれている。すると図らずも、胸のなかに澱んでいたものがにわかに澄んでいき、心が外に広がっていくように感じられた。そしてふと、ああ、「窓いっぱいの春」とはこういうことなのだろう、と得心した。
 とすれば、あの老人夫婦にも、そんな瞬間があったってちっともおかしくはない。しかも、日々が耐えがたく先が暗く閉ざされていればいるほど、その感動は大きかったに相違ない。
 ようやく花を咲かせたわが家の木蓮を眺め、花粉症が日ごとにひどくなっていくのを気にしながら、いっとき、明るい表情を取り戻した老夫婦の顔を思い浮かべている。

3.11大震災から4年 また被災地をめぐる

 3.11大震災の被災地を、折にふれて訪ねている。被災地という意味ではわたしの住むところも同じなのだけれど、現実にはこれといった被害をこうむっておらず、被災者が味わったはずの恐怖も悲しみも苦しみも実体験していない。それがある種やましさに似た痛みとなって、いまもずっと胸の底に沈殿している。
 ことさら被災地を訪ねるのは、それにたいする自分なりの解決の仕方なのかもしれない。なかでも、震災のあった時期に合わせて行くのには、特別の意味があるようだ。大震災から4年になるこのときも、前後を入れて3日間、岩手県大槌町から宮城県石巻市さらに女川町まで、三陸沿岸を訪ね歩いた。
 まわってみてまっ先に感じたのは、復興の遅れと、その速度の地域間格差だった。またそれが、被災者の心に大きな影響を与えていることだった。
 同じようなことは昨年も書いた。が、それから1年経って、さらにその差が拡大しているように感じられた。たとえば釜石市。同じ市内でも大町、大渡地区などの中心市街地では震災前に近い状態に戻りつつある一方、鵜住居地区周辺ではかさ上げ工事がようやく本格化してきた段階だった。もちろん、被害の程度の違いもあるだろう。であればこそ、それに見合った復旧・復興の速度が求められるはず。だが、現実はそうなっていない。
 その中心市街地でも、水産、商業といった事業者の再建は早いが、比べて、そうでない個々人の再建は遅れている。この5月に新しい家が建つとわざわざその現場を案内してくれた人も、事業者と個人への支援の差を嘆いていた。
 鵜住居仮設住宅に住む老夫婦は、空き部屋が増えていく状況に孤立感をおぼえながら、介護が必要な老人の行く場所はないと途方に暮れている。その仮設団地で、訪ねたその日の朝、住人がひとり部屋で亡くなっているのが発見された。前夜からカーテンを開けたままテレビがつけっ放しなのを、気にとめた近所の人が支援センターに連絡してわかった。60代の男性だった。
 自身も津波に流されて九死に一生を得た平田の仮設にいる女性は、いまも安定剤の助けを借りて暮らす。ふだんは外出をせず、ほとんど閉じこもり状態でいる。訪ねたその日も、戸を少し開けただけで、非礼を詫びながらもなかには入れてくれなかった。
 震災直後はそうでなかった。ときとともに、会うたびに、気持ちを閉ざしていくようだった。身内をなくし、病気も増やした。そんなことも影響しているのかもしれない。それでも話しているうち、自宅のあった鵜住居のかさ上げがすめば戻れる、と笑顔をのぞかせた。もっとも、それまでの2年間は、仮設住まいをつづけなければならない。
 同様のことはほかの地域にもある。そのいちいちをここに記すことはしない。記すにはスペースがあまりにも少なすぎるから。代わりに、そのときまわったいくつかの地域の様子を、簡単なコメントを添えた写真で示しておきたい。

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    ようやく本格化してきた釜石市鵜住居地区のかさ上げ工事

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    新しいまちづくりが進む釜石市の中心市街地 人も戻りつつある

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      釜石市の中心地に出店したイオンスーパーセンター

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    陸前高田市のかさ上げ ダイナミックな工事が進められている

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  遺すか壊すかで揺れる石巻市立大川小学校跡(児童・教師84人が亡くなった)

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   石巻市長面地区 沈下した土地はいまも湖のように水をかぶっている

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     石巻市雄勝町 高台移転のための造成はいっこうに進まない

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   石巻市旧市街地にある門脇地区 いまも震災時の荒涼とした光景が広がる

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     復興にはまだほど遠い石巻市の中心商店街 人通りは少ない