釜石の津波体験集『3・11その時、私は』第2集出る

 釜石・東日本大震災を記録する会の編集になる『3・11その時、私は』の第2集が大震災二年目にあたるこの三月、発行された。わたしのところにも、取材で知り合った方から一冊送られてきた。記録集はA5版170ページで、聴き取りも含めて40人の証言が掲載されている。
 そのいくつかを読んでみて、二年経ち、記憶がよりいっそう鮮明かつ細密になったような印象を受けた。おそらく、時間の経過とともに断片的だった記憶がひとつながりになり、その後明らかになった事実によってさらに補強されたためだろう。といって、うまくまとめられたといったようなものではなく、行間には体験者にしか発せられない生々しい声が溢れている。
 それだけに、一度に何人もの証言を読むことはつらい。毎日、二人、三人の証言を読み、その証言者の見たものを見ようとし、思ったことを思おうとしている。また、わが身に照らして、いろいろと考えている。

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 記録集には、鵜住居の防災センターに逃げて津波に巻き込まれ、奇跡的に助かった人の証言もある。
 震災前、この防災センターは地域の避難訓練時の避難場所になっていた。そのため、津波が押し寄せた3月11日も、住民たちはいつもの訓練どおり、この防災センターへ避難した。そして、大勢の人たちが波に呑まれ、犠牲になった。
 ところが、この防災センターは市が指定する避難場所ではなかった。地域の避難訓練のとき、遠い高台にある指定の場所まで逃げるのがたいへんだからと、便宜的に利用されてきたところだった。それを、住民たちは避難場所だとばかり思い込んできた。その結果の惨事だった。
 証言者は、被災当時の自身の状況と防災センターの様子を抑制気味に語っている。恐怖と悲しみは、それによっていっそう際立った。波にもまれ、生死の境で「助かりたい」と必死にもがく姿は、想像しただけで息が詰まる。ようやく水が引いてみれば、そのあとには「泥が三十センチぐらい積もり、ガレキと遺体がゴロゴロ重なって」いた。
 多くの犠牲者を出したこの防災センターの位置づけについては、被災後の六月に取材に入ったときも一部に問題視する声があった。当時はまだ解明が進んでおらず、声も大きくはなかったが、わたしも問題を感じて、不十分ながらルポ『津波の町に生きる』のなかで言及した。
 鵜住居防災センターの惨事は、天災ではすまされない重大な問題を含んでいる。そのため、「鵜住居地区防災センターに関する被災者遺族の連絡会」が、いま独自の検証を進めている。また、市も調査をおこなっている。
 取材のためとはいえこの地に多少でもかかわりを持った者として、一日も早い原因の究明と、今後のしっかりした対策がとられるよう願ってやまない。
 以下、参考までに、記録集に掲載された同「連絡会」が調べた被災状況について付記しておきたい。

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