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大震災から二年―岩手県沿岸被災地を訪ねて

 大震災から丸二年がたった。
 自分に係る被害が微少だったとはいえ、多数の犠牲者を出した荒浜海岸を数キロ先に控え、なおかつ、甚大な被害を蒙った石巻市を郷里に持つ者として、一日たりとも震災や津波を意識しない日はなかった。たとえ積極的に意識せずとも、おりにふれて、さもない想念のあいだから、ムンクの絵のようななんとも得体の知れないものが顔をのぞかせて、はっとさせられることがあった。そのたびに、大震災で亡くなった人々の叫びなのだろうと、安閑と生きている者の後ろめたさのような感覚で3・11を思い起こした。
 ときどきは、その叫びの在処を確かめずにはいられなくて、被災現場に足を運んだ。行ってみれば、眼前には被災時とさして変わらない荒涼とした光景が広がっているばかりだが、それでも、なにかしら彼らの声が聞こえてくるような気がして、言葉にはならない、黒だったり赤だったり青だったりの色を帯びたその声に、なにがしかの意味を汲みとりもした。そうした営みによって、少なくとも、年齢的なことと重なって虚無的になりがちな気分が、彼らの思いとともに生きていこうというところにまで押し上げられてきた。
 こうして、また節目の日を迎えた。
 節目は、物事を忘れやすい人たちには災害を思い出させるいいきっかけになるかもしれない。だが、被災者や被災地にとってみれば、それは単なる区切り程度の意味しか持たないだろう。大方の被災者がそうであるように、そこにある種の感慨や思い入れが込められたとしても、震災の日から今日までの理不尽さは、明日も、明後日もさらにその先までもつづいていく。この万感は、いまでも被災者の口から出る「悔しい」という言葉に尽くされている。
 節目は、その連続性のなかの一つの通過点にしかすぎない。現状から見れば、被災者にとってこの日はむしろ、これから先何年、あるいは何十年とつづく苦難を思い、立ち尽くしてしまう日になるやもしれぬ。つらさがより増幅する日になるやもしれぬ。
 そう思いつつ、やはり忘れやすいタイプの一人として、この節目に被災地を訪ねた。
 主たる目的は、ルポルタージュ『津波の町に生きる』の取材で会った人たちの、いまの様子を知ることだった。もちろん、取材時に歩いた土地の現状も、可能なかぎり見てまわりたかった。
 釜石を起点にして、大槌、山田、宮古、野田、久慈まで北上し、南に下っては大船渡、陸前高田まで行った。車の走行距離は、自宅のある仙台市を出発して帰ってくるまで1000キロに及んだ。
 走行距離が長ければ、それに応じて理解も深まるのか。当たり前のことだけれど、そんなことはない。正直なところ、思いつきでただ行ったり戻ったりを繰り返しただけで、いたずらに時間とガソリンを費やしただけだった。そうだとわかっていながら、しかしそうせずにはいられなかったのは、自分自身、感情に行ったり戻ったりするような、なにか定まらないところがあったためだろう。それでも、帰ってきて何日かしてみれば、その行きつ戻りつの意味が少しずつわかってきて、走行距離ほどとはいかないまでも、いくぶん考えも深まったような気がしてくる。
 津波被災地の復興がほとんど進んでいないのは、身近にある被災地をいつも見ているからわかってはいる。そして実際、行った先の状況も同じだった。大げさでなく、それは変化を見つけ出すことが困難なほどだった。
 市街地のあった地域には建物の土台が剥き出しのまま放置されていて、津波で壁をぶち抜かれた骸骨のような建物がいまだ数多く残っていた。皮肉にも、昨夏に繁茂した雑草の枯れ残ったのがその周囲を覆っていて、多少なりとも印象を柔らかくしていた。もっとも、それも部外者の印象で、被災者にとってみれば、その光景もまた残酷としかいいようがないものだろう。
 被災地の多くは、瓦礫を撤去しただけのまったくの手つかず状態になっていた。更地にさえなっていなかった。そんな荒廃した土地が、海岸線に沿って行けども行けどもつづいていた。
 わずかだけれど、地域によっては重機が入り、整地が進められているところもあった。が、そうであっても、復興計画が定まり、それにしたがって事業が進んでいるというわけではなかった。現実はその逆で、復興計画が定まっていない地域が依然として大半を占めていた。これに、住民のだれもが苛立っていた。ついには待ちきれなくなって、家を新築しはじめた人たちもいた。
 そうしたところでは、たとえば釜石市の中心部のように、骸骨のような建物と真新しい建物が併存して奇妙な空間をつくっている。想像してみればいいだろう。荒れ地の上のこうした構図は、雑草がはびこって原野のようになった土地を見るよりもずっと物悲しい。このアンバランスは、この国の政策のいびつさをそのまま象徴している。

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       釜石市浜町付近 この辺は整地が進んでいるほうだ

 港も同じである。今度の震災で、沿岸部は広範囲にわたって地盤沈下を起こした。そのため港には漁船が接岸できず、漁師たちは苦境に立たされている。先のルポで「港は死んでいた」と書いた釜石市箱崎漁港などは、ただの磯のようになってしまっている。
 大きな漁港のなかのいくつかは復旧が進み、破壊された水産加工場も再建されようとしている。それでも、そうしたところはごく一部で、しかも大きな漁港にかぎられている。多くの小さな漁港は見捨てられたままで、復興というにはほど遠い状態にある。
 大海で漁をする漁師たちの意気は高い。誇りも高い。にもかかわらず、希望を失って海に出るのを諦める人たちがあとを絶たない。理由は明らかだ。
 なのに、国や自治体側からは防潮堤建設の話ばかりが聞こえてくる。漁民の住まない巨大な防潮堤に囲まれた漁村など、いったいだれが望むだろうか。
 大震災によって避難生活を余儀なくされている人たちは、いまなお31万5000人を超えている。その大半が、現在も仮設住宅や借り上げの民間賃貸住宅(みなし仮設)に暮らしている。
 二年前の取材のおりに会った人たちもそうだ。その一人、釜石市鵜住居で津波に家ごと流され、漂流したあげく山裾に引っかかって助かったMさん(65)は市南部の平田にある仮設住宅にいる。
 当時、母親の介護と避難生活のストレスで肥満気味だった彼女は、見違えるようにスリムになっていた。血色もよさそうに見えた。
 彼女の母親は昨年七月に亡くなった。「家に帰りたい」最後までそう訴えていた。なんとか願いをかなえてやりたかったが、土台、無理なことだった。それが、彼女にとって半年余たったいまも心残りでならない。一方で、介護から解放されてほっとした面もある。そんな複雑な心境のなかで暮らしている。
 自宅兼美容院のあった鵜住居の土地には、市の線引き次第で戻れる可能性も出てきた。彼女自身まだ十分働けるし、美容院への未練もある。けれども諦めた。
 仮設店舗で店を開いている同業者を見ていると、どこもみんな台所が苦しい。それでも先が見えればがんばることもできるかもしれない。問題は、仮設を出たあとの見通しがまるで立たないことだ。といって、この先どうすればいいのかもわからない。彼女はいま、そんな状態にいる。
 仮設住宅には空き家が目立つようになった。別の地に家を建てて移っていく人もいれば、子どもたちに引き取られていく人もいる。若い人たちだけが移っていって、老人ひとり取り残された家もある。聞けば、「おれはひとりのほうがいいから」とこたえる。でも、本音はわからない。Mさんはそう言って顔を曇らせる。

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        平田の仮設住宅 ここには仮設商店街もある

 両石の住宅が津波に呑まれ、命からがら裏山に逃げて助かったHさん夫婦は鵜住居仮設住宅にいる。二人はことし、ともに88歳になる。仲睦まじく、互いに交わす言葉も明るい。窮屈な仮設暮らしにも慣れてきたように見える。が、夫婦とも、この二年でかなり老いが進んだようだった。
 仮設に入った当初、夫のほうは団地に自治会をつくると意気込んでいた。平家落人の末裔としての気骨と、災害を乗り越えてきた自信のようなものがみなぎっていて、年齢を感じさせなかった。請えば、自ら車を運転して、自宅のあった場所などの被災現場を案内してくれた。
 いまはそんな気力も失せてしまったようだ。言葉にこそ出さないけれど、先行きのことはすべて諦めのなかに呑み込んでいるように思われた。そればかりか、話す言葉の、前とは違うやや甲高いうわずった声音に、どこか不安定なものさえ感じられた。
 その彼は、88歳のいまも車の運転をつづけている。不安がないわけではないが、まわりには買い物をできるところがなく、無謀を承知で運転している。事実、仮設の周辺には商店はないし、薬局も診療所もない。「車がなければ生きていけないよ」彼はそう言って、おかしくもなく笑い飛ばす。

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     鵜住居の鵜住神社前 周囲に人家がないのに居酒屋ができた

 このほか、いくつかの仮設住宅やみなし仮設のアパートを訪ねた。そのなかには、ダンプカーを駆って精力的に働いている人もいた。もとの住宅跡に家を再建できそうだと喜んている人もいた。希望を持って前に進もうとしている人がいたし、先のことなど考えられず、いまの瞬間を懸命に生きようとしている人がいた。
 二年もたつと、それぞれに歩み方もまた速度も違ってくる。しかし、それを仕方がないと言って片づけてしまうわけにはいかない。現実を見ればわかるように、立ちはだかっている障害は、個人の努力で乗り越えられるようなものではないのだ。

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      大槌町のいま 3・11で時間が止まったような光景

 震災は大勢の命を奪ったばかりか、あらゆる生活基盤を破壊しつくした。そこから立ちあがり、生活と精神の再建、再生をはかるには、まず少なくとも、生きて前へ進むための最低限の条件が整えられなければならない。
 震災から二年たっても、それが進んでいない。責任の所在は明らかだろう。国民の生命、財産を守るのは国家の責任なのだ。

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      陸前高田の「一本杉」 附近をダンプカーが頻繁に行き交う

 帰途、車中から、遠く焚き火があげる煙と人影を眺めながら、福島のことを思った。二ヵ月前に訪ねた飯舘村南相馬市や浪江町の、ひとけのない、しんと静まり返った街や集落の情景を思った。そして、震災のうえに原発事故まで起こし、しかも、人々を故郷から追いやって帰還できる見通しもつくれないなか、原発再稼働を平気で口にする政府や電力の背徳を呪った。
 日が落ち視界が闇に包まれてくると、だしぬけに歌が出た。はじめは斎太郎節、つぎに相馬二遍返し、さらに沢内甚句と八戸小唄。出てくる歌は民謡ばかり。それが不思議だったが、口から出るにまかせて脈絡なく歌った。
 歌詞はでたらめ、それをまるでがなりたてるように、でもやけくそでなく、たぶん。最後は、どういうわけか長持唄になった。