大震災から5年3ヵ月、三陸沿岸、福島県沿岸をめぐる

 5月末から6月初めにかけて震災被災地をまわった。震災後まもなく主に三陸沿岸を取材で歩いて以降、3月11日とその前後には被災地の現場に立つ、と自らに課してきた。
 当時、仙台市若林区にいて、自宅はさして被害もなかったが近くまで津波が押し寄せ、東部の海沿いの集落はほぼ壊滅して大勢の犠牲者を出した。生まれ故郷の石巻市では市街地から半島の小さな集落まで津波に呑み込まれ、3700人もの死者、行方不明者を出した。友人や知人も失った。そうした重い事実が自分のなかにあって離れず、時期になると現地に向かわせる。おそらく、体の許すかぎり今後もつづけることになるだろう。
 と言いながら、ことしはちょうど引っ越しと重なってそれがかなわなかった。そしておよそ3ヵ月後、やっと実現できた。
 今回は南三陸町から気仙沼市陸前高田市大船渡市、釜石市宮古市、そして久慈市へと北上。さらに、原発事故の被害の大きかった地域、宮城県丸森町から福島県飯舘村浪江町南相馬市双葉町大熊町、富岡町、楢葉町とまわった。測定器を持参して、放射線量も測った。
 全体を見て、率直に言って落胆した。釜石市の中心市街地のように復興の比較的速いところもあるが、ほとんどが道半ば、というより先が見えない。大規模なかさ上げが進んでいる南三陸町陸前高田市にしても、はたして工事がいつ完成するのか、仮に完成してもそこに人が戻ってくるのか、まるで見当がつかない。むしろ、絶望的な気持ちにさえなる。
 実際、地元の人に訊いても、希望の持てる話は返ってこない。もっと国ぐるみで進められないのかといった声も少なくない。金と人とを惜しみなくつぎ込む東京オリンピックを羨む声もある。メディアから忘れられてきている、と嘆く声もある。
 福島県沿岸に行けば、一部で避難指示が解除されて帰宅準備が進んでいるところもあるが、帰還困難区域は文字どおりゴーストタウン化している。眺めていると、図らずもチェルノブイリ原発事故後のうち捨てられた村の映像が重なってくる。そこは、ただただ絶望に覆われている。
 が、それらをここで詳しく述べる余裕はない。以下、いくつかの写真と福島で測定した放射線量の結果を、訪ねた順に記すにとどめる。

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          一帯は盛り土の山ばかり(南三陸町

放射線量測定結果(宮城県丸森町福島県いわき市、2016年6月3日)

 宮城県丸森町不動 あぶくま荘前 0.161 μSv/h
 丸森町筆甫 筆甫小学校前 0.229 μSv/h
 福島県伊達市霊山町 国道113号線 霊山パーキング内 0.346 μSv/h
 福島県飯舘村草野 草野小学校前(閉鎖中) 0.420 μSv/h
 *やや霊山寄りにあるモニタリングポストは 0.8 μSv/h超

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          除染作業はつづく(飯舘村草野)

 飯舘村草野 県道12号線 ミートプラザ前(閉鎖中) 0.729 μSv/h
 浪江町 県道14号線 浪江町入り口付近 2.279 μSv/h

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      県道14号線 浪江町入り口 この先は立ち入りできない

 浪江町 県道14号線 上立野公民館前 2.754 μSv/h
 *モニタリングポストは 1.143 μSv/h(この先、帰還困難区域で通行止め)
 南相馬市小高区 小高郵便局付近(閉鎖中) 0.102 μSv/h
 *家々には人は不在だが庭などはよく整備されている。帰還待ちか?

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             南相馬市小高の目抜き通り

 南相馬市原町区 国道6号線 道の駅南相馬庭(芝生) 0.207 μSv/h(車内0.157 μSv/h)
 双葉町 国道6号線 双葉町入り口(寺内前) 3.825 μSv/h(車内2.154 μSv/h)
 以下、帰還困難区域内での駐停車原則禁止。窓を閉めエアコンは内気循環で測定。
 大熊町 国道6号線 福島第一原発入り口付近 車内で6.5 μSv/hを超える
 *走行中の測定。
 富岡町上郡山 国道6号線 セブンイレブン駐車場(営業中) 0.222 μSv/h
 *場所によっては0.854 μSv/h
 楢葉町北田 ふたば復興診療所駐車場 0.111 μSv/h
 いわき市四倉 道の駅よつくら港駐車場 0.069 μSv/h
 いわき市常磐湯本 ローソン前 0.058 μSv/h

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美空ひばりの歌碑がある塩谷埼灯台 映画「喜びも悲しみも幾年月」の舞台にもなった

転居から1ヵ月余、益子から

 益子の新居に落ち着いて1ヵ月あまりが経った。引っ越し荷物の整理もなんとか済んで、まわりに気を配る余裕もできた。同時に、少しずつ仙台との違いもわかってきた。
 気候は内陸型なのだろう、海が近い仙台とくらべると、気温は日中高く朝晩が低い。つまり、一日の気温差が大きい。その落差にはじめは戸惑い、油断して風邪を惹きもした。が、最近はそれにも慣れてきた。いまの時季はむしろ朝のひんやりした空気が心地よく、まわりを囲む森のせいもあってか、高原にいるような爽快な気分になる。
 朝はウグイスの声と寺の鐘の音で目が覚め、少し経つとホトトギスやヤマバトが鳴き出してのどかな一日が始まる。民家はわが家の下に数軒、上にはハンガリー出身の彫刻家(故人、いまは奥さんがひとり住んでいる)のアトリエ兼居宅と別荘が2軒あるのみ。したがって人の行き来はほとんどなく、静かなことこのうえない。

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 彫刻家のアトリエ 庭にはいくつもの彫像が立っている(4月ごろ撮影)

 仕事に疲れたら散歩に出るのもいい。コースはいくつもある。なかでいま気に入っているのが、通りを隔てた高台にある美術館と周辺の公園、寺院の境内をまわるコース。およそ40分程度の行程だが、枝を大きく広げた木々の下を鳥のさえずりを聞きながら歩くのは気持ちがいい。高低差もかなりあるから、足腰の鍛錬になって健康にもいい。夕刻ならちょっと足を伸ばし、そのまま居酒屋の暖簾をくぐるのも悪くない。
 と、まあ、いまのところ、住まいと環境にはたいへん満足している。

 ところで、大震災から5年になるこの3月、例年どおり被災地をまわる計画だった。しかし、引っ越しの関係でかなわなくなり、落ち着いたらできるだけ速やかに訪ねることにしていた。
 それが、先日ようやく実現した。南三陸町から気仙沼陸前高田大船渡、釜石、宮古、久慈まで行き、途中、べつの取材で秋田県内をまわってから、原発被災地の福島県沿岸を巡った。丸一週間の行程だった。
 そのことを少し触れたかった。が、あいにく今回は時間がない。なので、次回に譲ることにする。

ようやく転居完了

 4月下旬、ようやく益子に転居することができた。いろんなアクシデントが重なり、予定より1ヶ月半遅れの引っ越しとなった。すでにきょうは5月朔日、新居の下の通りでは恒例の陶器市が開かれている。ゆっくりと見てまわりたいところだが、荷物の整理がつかずそんな気分にもなれない。といって、焦っても詮ない。ぼつぼつやっていくことにしよう。
 追々ここでの暮らしぶりも伝えていきたい。

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              改築前の物置小屋

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               改築後の新居

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        転居の半月ほど前 娘宅では窯炊きの最中だった

仙台から益子へ

 来年三月早々、住み慣れた仙台を離れて栃木県の益子町に移住する。いまいる土地に飽いたとか、移住先に娘たち家族が住んでいるとか、違った環境で新たな仕事に挑みたいとか、理由をあげればいろいろあるが、もう少し静かな場所で暮らしたいと思っていたところ折よく娘から誘いがあり、それに乗ったというのが正直なところか。
 しかし、いざ引っ越すとなるとなかなかたいへん。家は古い小屋を借りたのはよかったが、人が住めるように改造するのが大仕事。地元の大工さんに掛け合ってなんとか請け負ってもらうことになったが、いったいどんなものになるのか見当もつかない。
 いま住んでいる家を引き払うのもたいへん、引っ越しにともなう作業も山ほどある。こんなことならもう少し体力があるうちにすればよかったと後悔したが、すでに始まった作業は止められない。そんなこんなで、毎日忙しく駆けまわっている。おかげで仕事には身が入らないし、このブログもほったらかし。が、仕方がないか。
 来春まではこうした状態がつづきそうだ。というわけで、今回はその断り。どうかご勘弁を。

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    益子との行き来のおり茨城県大子の袋田の滝に立ち寄った

このところ忙しくて

 大半はさもない用事なのだが、毎日がなんとなく忙しく過ぎていく。下手をすると3日もメールチェックをしないこともあって、気がついたら山のようにメールが届いているといった具合。といっても、これまたさもない、ネットショッピングをしてうっかり購読してしまった広告メールばかりだから、読みもせず片っ端から棄てている。それでも、友人や知人などからのメールは別のボックスに仕分けてあるので、誤っていっしょに削除してしまうことはない。
 そんなわけで、ブログの更新もままならない。出かけるときはいつもタブレット端末を持参していくが、それを使ってブログを書く気にはならない。タブレット端末はほとんど調べ物をするための道具で、それ以外はカメラ代わりに使う程度。メールも送受信できるが、出先では特別のことがないかぎりやらない。
 もっとも、ブログを更新しなくたって困る人はいない。だから、そのまま放っておいてもかまわない。が、どういうわけか、それもまたなんだかけじめがつかないようであまり気分がよくない。
 で、きょうもまたこれから遠出するのだが、月2回の更新が果たせなくなりそうだと思うとすっきりしない。何日も通じがないときのような、下腹が妙に重たいような気分なのだ。
 ということで、今回は先日益子町に行ったおりたずねた西明寺の写真を掲載して、茶を濁すことにする。いや、それだけではあまりにも素っ気ないので、それぞれの建造物の由来について、益子町のHPから引用した文を添えておく。

 

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 西明寺三重塔(国指定重要文化財
 高館城主益子家宗の建立で、三層とも柱間が三間、初層間に二層は和様尾垂木、三層は唐様、軒廻りは初層繁垂木、二・三層扇垂木、隅木は初層のみ和様、他は唐様、木割等の手法は優美でそれぞれの建築様式の特徴をよく表している。屋根は軒の出が深く、勾配や反りもきついがバランスのとれた安定したものである。相輪の材質は青銅で九輪の水煙が雲形の連続模様で、伏鉢に「天文七歳二月吉日」の銘がある。関東甲信越四古塔のひとつである。

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 西明寺楼門(国指定重要文化財
 基礎を設け柱は三十二角造り。左右の側室は前後に区切られ、前室に金剛像・仁王像を安置している。背面腰組下蟇股は形態珍奇、彫刻手法、細部模様絵など精美である。柱間を飾る中備(箕束)、匂欄出組の唐様斗拱、頭貫木端の繰形彫刻は特徴のある渦形文様で室町時代の特徴をよく表している。

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 西明寺本堂(県指定有形文化財
 益子勝直によって開扉供養が行われ、元禄14年(1701)大改修で現在の形成になった。柱は円柱で内法貫と頭貫をめぐらし隅柱外方には唐獅子彫刻を取り付け、中備の蟇股は十二支が刻まれている。内部は中三間が蔀戸、他は引き違い板戸で内外陣に分れ外陣天井は鏡天井で龍の墨絵が描かれている。内陣は格天井で人物花鳥等が描かれ単彩が施されている。内外陣の欄間は天女奏楽、鶴と仙人、浮舟上の仙人などの彩色彫刻がある。