Myカップ展 in 仙台・秋保「木の家」のこと

 Myカップ展~300cups collection~と銘うった展示会が、仙台市秋保の「木の家・秋保手しごと館」で開かれている。地元工芸作家を対象に毎年この時期に開かれている企画展で、今回は地元以外からも何人か参加、栃木県益子町で焼き物をつくっているわが娘(成井ふみ)も出品している。
 ということで、その宣伝。それ以上でもそれ以下でもありません。

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 期間は4月17日(金)から5月12日(火)まで。ちょうど新緑の季節。近くまで行かれたら、ぜひ足を運んでみてください。(親ばかで恐縮です)
 秋保「木の家」のホームページはこちらから。

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夢に見る震災はなにを語るのか

 変な夢を見た。
 郷里の石巻のどこかはわからない、しかし懐かしいと感じるらしい場所の、いまはがれきの原となったところにいた。その一角だったかに、少年時代の仲間たちが集っていた。なかに、いまも交流がある友人が二人いた。
 その一人が手招きをする。うれしくなって近づいていく。と、不意に何者かに阻まれる。それを払いのけ必死になって近づこうとするが、阻止しようとして広げられた手が壁のようになって立ちはだかる。その壁がひどく絶望的で、なすすべもなくただ立ち尽くす。そんな夢だった。
 これがなにを意味するのかわからない。が、なんとなく感じることはある。

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     震災まもない石巻の旧北上川河口付近(日和山から)

 先の大震災では地震の恐怖を体験した。津波は直接体験していない。体験はしていないが、直後から被災地をまわり、惨状を見、被災者のさまざまな声を聴いて歩いた。そのいくつかはルポに書いた。
 もちろん、書き切れなかったことがたくさんあった。それがいまも、抱えきれないほど残っている。これがあるとき、夢となって出てくる。
 仕事や私的な旅で沿岸の町をめぐることが少なからずある。そのおり、そこに宿を取ることも多い。ところが、震災後、海岸沿いに泊まるのが怖くなった。きっかけは、秋田県山形県の県境に近い、ある旅館に泊まったときの体験だった。
 宿のすぐ下は日本海で、背後には羽越本線が通っていた。その晩、海に沈む夕日と手作りの魚料理にいつになく酒がはかどり、酔いの勢いで早めに休んだ。

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      そのときに宿の部屋から眺めた日没後の日本海

 明け方のことだった。眠っていて、それまでまったく気にならなかった波の音が妙に大きく聞こえた。そこにどういう企みか、低く重たい唸るような音が重なる。海鳴りか地鳴りのような不気味な音。直後、黒く泡立つ巨大な塊が迫ってくる。その恐ろしさに、声にならない声で「わー!」と叫ぶ。一方で、夢心地に、津波ではないとも思っている。が、切迫した恐怖はそれをも押しつぶす。
 その恐怖に弾かれて跳び起きる。そして、覚醒した目で薄暗い部屋を見まわし、やや経ってようやく、音の源が羽越本線を走る一番列車だと気づく。そういう体験だった。
 以来、特別な場合をのぞいて海辺の宿を取らなくなった。仕方なく取るときは不眠を覚悟した。
 直接津波を(原発事故を)体験していなくても、体験した人たちの話を聴きためていくうち、あたかも実体験したような感覚にとらわれることがある。それが何度も再現されていくと、やがて心に深い痛みとなって遺っていく。それは、命を脅かすような強い肉体的、精神的衝撃を受けることによって生ずるトラウマに似ている。あるいは、精神科医が大勢の患者の訴えを聴くうち、しだいに自身も心を病んでいくのに似ている。
 現実に、自分の身に起きていることはそこまでひどくはない。しかも、特別の条件が重なったときにかぎられている。それでも、そのときどきに、震災によって引き起こされる出来事の恐ろしさをしたたか味わわされることになる。
 近ごろではそれを、震災のことが記憶から遠のいていくことへの被災者、犠牲者からの戒めなのだろう、と思うようになった。そう考えると、なんとなく落ち着く。それでも恐怖はなくならないが、その恐怖もまた創造への新たな力になるはず、と都合よく受けとめることにした。すると、少しは前向きでいられる。

老人が手紙にこめた「窓あけて窓いっぱいの春」

 3.11大震災の津波被災し、いまも釜石市鵜住居仮設住宅に暮らしている老人から手紙が届いた。手紙には先日訪ねたことへの礼に加えて、「窓あけて窓いっぱいの春」という山頭火の句が書き添えられてあった。
 手紙はうれしかった。が、一方で、東側を山に遮られて朝日が届かない、彼自身、日当たりが悪くて住みにくいとぼやく仮設住宅での生活を思い、添えられた句に妙な引っかかりをおぼえた。
 句をそのまま素直に読めば、ようやく春めいてきて身も心も晴れ晴れとしている、ととるのが自然だろう。けれども、老人とその妻の暮らしぶりを多少でも知っている者には、それが逆の意味合いに響いてきてならない。そこが引っかかった。結局、そういう両義的な思いがこめられているに違いないと受けとめたが、それでもなお、老人の気持ちはやはり後者に傾いているのではないかという気がして、少々憂わしくなった。
 山頭火の『草木塔』に収められているこの句は、「孤寒」のなかの、母の四十七回忌に寄せた句につづく連にある。その部分を引用してみる。

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 うどん供へて、母よ、わたくしもいただきまする
 其中一人いつも一人の草萌ゆる
 枯枝ぽきぽきおもふことなく
 つるりとむげて葱の白さよ
 鶲また一羽となればしきり啼く
 なんとなくあるいて墓と墓との間
 おのれにこもる藪椿咲いては落ち
 春が来たいちはやく虫がやつて来た
 啼いて二三羽春の鴉で
 咳がやまない背中をたたく手がない
 窓あけて窓いつぱいの春
 しづけさ、竹の子みんな竹になつた
 ひとり住めばあをあをとして草
 朝焼夕焼食べるものがない

 山頭火の母は彼が10歳のとき(1892年―明治25年)、井戸に身を投げて死んでいる。山頭火は14歳のころから句作を始め、長じて俳句誌への投稿をおこなうようになり、やがて自由律の句にたどり着く。酒造場を営んでいた実家が破産したのは、それからまもなくのこと。山頭火が34歳のとき(1916年―大正5年)で、結果、父は行方不明になる。そこに追い打ちをかけるように、弟までもが自殺する。
 1923年(大正12年)、山頭火は関東大震災に見舞われて熊本市に逃げる。その逃げた先で不始末を起こし、それがきっかけで寺男となり、翌年、得度する。しかしそれもつかの間、一年後には寺を出ると、雲水姿となって各地を放浪、句作をつづけるようになる。
 前記の句が詠まれたのは1938年(昭和13年)のころで、ちょうど日本が日中戦争に突き進んでいく時期と重なる。「孤寒」の前に「銃後」の句があり後ろに「旅心」の句が置かれているのも、そうした時代を反映してのことだろう。
 そんなことを考え、あらためて「窓あけて」と一連の句を並べ読んでみると、これを引用した老人の心の在処がわかるような気がする。単純に、春めいて心が開いていく、というふうには受けとることができない。そしてそれは、彼ひとりだけではあるまいとも思う。
 手紙には、ある国際交流団体の機関紙に寄稿した老人の一文のコピーが同封されていた。そのなかで彼は、貞観地震津波をはじめとするこの地方を襲った津波を古いほうから順に並べ、そこに自身とその祖先にかかわる出来事を記している。即ち、明治三陸津波(1896年―明治29年)では祖母ひとりが生き残り、昭和三陸津波(1933年―昭和8年)では祖父母、父母、幼児3人、胎児の計8人が生き残り、今回の津波では夫婦ともに山中へ逃げて助かった、と。
 これには説明がいる。つまり、明治三陸津波では当時17歳だった祖母を除いて、養蚕業を営むその父母と家族、手伝いの者全員が亡くなったが、その教訓から家を高台に建てて以降は、度重なる津波の襲来にもかかわらず誰ひとり犠牲者を出さなかった、というのである。彼はそして、これらの地震の間隔がそれぞれ37年、78年あったことをあげ、「天災は忘れたころにやってくる」という警句には自分の体験から承服しかねる、とやや強い調子で述べている。
 コピーがどういうわけか途中で切れていて、全体の意図がよくわからない。が、裏に、今度の津波で大勢の人々が亡くなったことへの、持っていき場のない憤りと悲しみがあるように感じられてならない。備えていたつもりであっても自然の猛威にはかなわなかったし、備えが不十分だった人たちは今回もまた犠牲になってしまった。でもそれは、「忘れていた」からではない。知っていたけれども、自然の力を軽んじていたからだ。それが老人には腹立たしくて無念でならない。そのやるせなさが、「窓あけて」の句の引用にこめられたのではないのか。
 老人と彼の連れ合いの暮らしぶりを想像すると、どうしてもそんなふうな考えに行き着く。もしかすると、それは自分の心に宿しているものの反映なのではないかとも思うが、それならそれで、ちょっと救いがたいような気がしてくる。

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 そんな気分で、「きょうは4月中、下旬の陽気になる」という天気予報につられて仕事部屋から外に目をやると、晴れわたった空の下、うらうらとした春の光があふれている。すると図らずも、胸のなかに澱んでいたものがにわかに澄んでいき、心が外に広がっていくように感じられた。そしてふと、ああ、「窓いっぱいの春」とはこういうことなのだろう、と得心した。
 とすれば、あの老人夫婦にも、そんな瞬間があったってちっともおかしくはない。しかも、日々が耐えがたく先が暗く閉ざされていればいるほど、その感動は大きかったに相違ない。
 ようやく花を咲かせたわが家の木蓮を眺め、花粉症が日ごとにひどくなっていくのを気にしながら、いっとき、明るい表情を取り戻した老夫婦の顔を思い浮かべている。

3.11大震災から4年 また被災地をめぐる

 3.11大震災の被災地を、折にふれて訪ねている。被災地という意味ではわたしの住むところも同じなのだけれど、現実にはこれといった被害をこうむっておらず、被災者が味わったはずの恐怖も悲しみも苦しみも実体験していない。それがある種やましさに似た痛みとなって、いまもずっと胸の底に沈殿している。
 ことさら被災地を訪ねるのは、それにたいする自分なりの解決の仕方なのかもしれない。なかでも、震災のあった時期に合わせて行くのには、特別の意味があるようだ。大震災から4年になるこのときも、前後を入れて3日間、岩手県大槌町から宮城県石巻市さらに女川町まで、三陸沿岸を訪ね歩いた。
 まわってみてまっ先に感じたのは、復興の遅れと、その速度の地域間格差だった。またそれが、被災者の心に大きな影響を与えていることだった。
 同じようなことは昨年も書いた。が、それから1年経って、さらにその差が拡大しているように感じられた。たとえば釜石市。同じ市内でも大町、大渡地区などの中心市街地では震災前に近い状態に戻りつつある一方、鵜住居地区周辺ではかさ上げ工事がようやく本格化してきた段階だった。もちろん、被害の程度の違いもあるだろう。であればこそ、それに見合った復旧・復興の速度が求められるはず。だが、現実はそうなっていない。
 その中心市街地でも、水産、商業といった事業者の再建は早いが、比べて、そうでない個々人の再建は遅れている。この5月に新しい家が建つとわざわざその現場を案内してくれた人も、事業者と個人への支援の差を嘆いていた。
 鵜住居仮設住宅に住む老夫婦は、空き部屋が増えていく状況に孤立感をおぼえながら、介護が必要な老人の行く場所はないと途方に暮れている。その仮設団地で、訪ねたその日の朝、住人がひとり部屋で亡くなっているのが発見された。前夜からカーテンを開けたままテレビがつけっ放しなのを、気にとめた近所の人が支援センターに連絡してわかった。60代の男性だった。
 自身も津波に流されて九死に一生を得た平田の仮設にいる女性は、いまも安定剤の助けを借りて暮らす。ふだんは外出をせず、ほとんど閉じこもり状態でいる。訪ねたその日も、戸を少し開けただけで、非礼を詫びながらもなかには入れてくれなかった。
 震災直後はそうでなかった。ときとともに、会うたびに、気持ちを閉ざしていくようだった。身内をなくし、病気も増やした。そんなことも影響しているのかもしれない。それでも話しているうち、自宅のあった鵜住居のかさ上げがすめば戻れる、と笑顔をのぞかせた。もっとも、それまでの2年間は、仮設住まいをつづけなければならない。
 同様のことはほかの地域にもある。そのいちいちをここに記すことはしない。記すにはスペースがあまりにも少なすぎるから。代わりに、そのときまわったいくつかの地域の様子を、簡単なコメントを添えた写真で示しておきたい。

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    ようやく本格化してきた釜石市鵜住居地区のかさ上げ工事

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    新しいまちづくりが進む釜石市の中心市街地 人も戻りつつある

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      釜石市の中心地に出店したイオンスーパーセンター

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    陸前高田市のかさ上げ ダイナミックな工事が進められている

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  遺すか壊すかで揺れる石巻市立大川小学校跡(児童・教師84人が亡くなった)

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   石巻市長面地区 沈下した土地はいまも湖のように水をかぶっている

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     石巻市雄勝町 高台移転のための造成はいっこうに進まない

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   石巻市旧市街地にある門脇地区 いまも震災時の荒涼とした光景が広がる

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     復興にはまだほど遠い石巻市の中心商店街 人通りは少ない

3.11とモディアノ『1941年。パリの尋ね人』

 3.11大震災からまもなく4年になる。いまだに2590人の行方がわかっていない(2015.2.10 警察庁調べ)。遺体が見つかっても、どこの誰かがわからない人たちも少なくない。なのに、震災のことも犠牲者のことも、時とともに忘れ去られていく。
 人々の記憶が薄れていくにしたがって、犠牲者は次第に記号化、数値化されていく。その人がどんな人物であったのか、どんな生き方をしてきたのか、家族がいたのか、なにを生業としてきたのか、おそらくは顧みられることもない。やがて、津波が浜を根こそぎさらい取っていったように、この世にいたという痕跡さえなくなってしまう。そのことに、薄ら寒さをおぼえる。
 震災のあと三ヵ月ほどして、岩手県釜石市に取材に入った。そのとき、すでにそんな恐れを感じていた。それを、ルポ『津波の町に生きる』(2011年12月、本の泉社刊)の冒頭に書いた。
〈三月十一日の大地震につづく大津波で、ここ箱崎では、二百七十五戸ある家のうち二百三十戸が流された。押し寄せた津波は廃校になった一部三階建ての旧箱崎小学校をも呑み、高台の住宅地にまで迫った。鉄筋コンクリートの校舎はかろうじて残ったが、周辺の家々は猛り狂った波になぎ倒され、むしり取られた。死者・行方不明者は七十人を超えた。
 その死者一人ひとりの顔を思い浮かべようと試みる。もちろん、そんなことができるはずがない。けれども、あらかじめ頭に入れてきたこの集落の成り立ちから、つい百日前まで暮らしていた人々の営みを想像できないことはない。
 漁に出る漁師、網を繕う老人、庭の菜園で胡瓜を育てる老婆、箱崎トンネルをくぐり、あるいは南の桑ノ浜から両石を通って勤めに出る一家の柱、そしてまた、スクールバスに乗り、根浜の海岸の道を鵜住居の学校にかよう児童・生徒たち。だが、顔かたちはともかく、その一人ひとりの表情にまで辿り着こうとしたとき、いましがたまで死者・行方不明者七十人超とひとくくりにしていた自分に軽い失望を覚えた。人は、たとえ死んでいようとも数ではない。〉
 人は、たとえ死んでいようとも数ではない。それぞれに他人とは違う個性があり、固有の人生があった。そこに思い及ぼす必要がある。自戒をこめて、そう思った。
 だが、その先どうだったのか。すべてとはいかないにしても(もちろんできることでもないが)、物書きの端くれとして、その何人かについてでも、数値化された世界からこの世にすくい上げることをしたのか、できたのか。
 残念ながら、「否」とこたえるしかない。震災後、このことを念頭にいくつかの短篇を書いてきたが、納得のいくものにはならなかった。パトリック・モディアノの『1941年。パリの尋ね人』(作品社)を読むと、いっそうその思いを強くする。

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 モディアノのこの本は小説ではない。パリに暮らしたユダヤ人少女ドラ・ブリュデールの、誕生からアウシュヴィッツに送られるまでの、16年間を追ったノンフィクションである。それも、1941年12月末の、新聞に掲載された小さな〈尋ね人広告〉を手がかりに、気の遠くなるような調査、取材を重ねての。彼はこれによって、闇に消えた、忘却の彼方にあった無名の少女を、この世に確かに生きていたひとりの人間としてよみがえらせようとした。
 モディアノはなぜそこまでするのか。彼は日本の読者に向けたメッセージのなかで、次のように述べている。
〈一九四一年十二月のある新聞で、偶然、この少女の〈尋ね人広告〉を読んだとき、すぐに彼女のことが私の心にとりつき離れなくなりました。しばらくして、彼女も、そして彼女の両親も、人類が同胞に対して企てたもっとも恐るべき絶滅計画の犠牲者だったと知ったとき、この少女は永遠に未知の女性でありつづけるだろう、と思いました。それは何百万人もの人々を殺戮した以上、死刑執行人たちは、殺された人々がこの世に生きていた証拠も、役所の書類上のどんな痕跡も、何ひとつ残らないようにし、彼らの名前や生年月日が記されたカード・書類のたぐいは最後の一片まで破棄しつくしただろう、と予想されたからです。〉(白井成雄訳)
 モディアノは社会と歴史のなかから消されていく記憶をよみがえらせようとした。無名の人々のかすかな足跡を忘却から守り、そこに血をかよわせようとした。それは、彼自身の生い立ち、境遇とも深く関わっている。少女ドラやその両親のたどった先が、モディアノの記憶や彼を棄てた父のたどった道と交差するのはそのためだ。
 モディアノは、先のメッセージを次のように締めくくっている。
〈『1941年。パリの尋ね人』に寄せられたある批評を読んでいて、私は次の文章にとくに心を打たれました――「もはや名前もわからなくなった人々を死者の世界に探しに行くこと、文学とはこれにつきるのかもしれない」〉
 モディアノはまた、「リベラシオン」紙への寄稿文のなかで、「文学を生みだす主要な原動力はしばしば記憶なのだ」とも語っている。曖昧な記憶としてしかない過去と現在を往還しながら、そのなかに人間の在処を見いだそうとする彼の小説スタイルは、たぶん、そこから生まれている。一連の作品が「記憶の芸術」といわれるのも、それゆえだろう。

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 そんなことを考えながら読んでいて、ふと、丸谷才一の『笹まくら』を思い出した。徴兵忌避をして全国を逃げまわった男の、そのときと20年後の「現在」を行き来する小説が頭に浮かんだことの不思議に驚くが、一方で、まったく脈絡のないことでもないとも思った。それに、再読を重ね、少なからず影響を受けてきた作品だから、なにかの拍子に思い出されてもおかしくはない。
 そんなわけで、また読み返すことになった。そして、あらためて深く感じ入った。ついでに、自分の力の程度も再認識させられた。