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『こつなぎ物語』刊行を祝う会に出て思うこと

 野里征彦著『こつなぎ物語』がこの春完結し、第二部、第三部が同時出版された。その「刊行を祝う会」がこのほど盛岡市で開かれ、案内をもらってわたしも出席した。「会」は岩手こつなぎの会と民主主義文学会盛岡支部が主催したもので、岩手県内外から70人ほどが参加。小説の舞台となった小繋からも住民たちが出席して、著者へのねぎらいと出版への思いを語りあった。
『こつなぎ物語』は岩手県北にある小繋山の入会権をめぐる半世紀にわたる闘い、いわゆる「小繋事件」に材を採った小説で、その始まりから終わりまでが、ほぼ事実に即して克明に綴られている。しかも、事実に縛られて冗漫にならず、権力や資本家らによって対立を余儀なくされた農民たちの姿が、豊かな想像力をもって生き生きと描かれている。
「山は誰のものか?」「土地は誰のものか?」。小説はその根源的な問題に迫る。それは、時を経てなお今日的な意味を持つ。
 じつは、題材となった小繋事件について、わたしにも特別の思いがあった。
 いまから四十何年か前、わたしは戒能通孝の『小繋事件』(岩波新書)を読んで初めてこの事件のことを知った。そして、東北の寒村で、権力や資本家の暴力に屈せず、入会権を主張して勇敢に闘う農民たちがいたことにひどく興奮した。    

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 本は1964年に出版された。その末尾に、著者による次のような言葉が添えられてあった。
「小繋事件は現象的には小さな事件です。しかしそれは単なる局地的な一小事件でなく、日本社会の縮図であるということができるにちがいありません。焼酎を飲み、肩たたきをされた結果、失ってはならないものを失った実例はいくらでもあります。大きくいえば戦争もそうであり、昭和三十八年十一月九日の三池炭鉱爆発事件もそうでした。失うべきでないものを失わないこと、そこに人間性の出発点があります。」
 これに、わたしは共感した。
 少し前まで東京の劇団で芝居の勉強をしていて、そのころ、野里らと同人誌を発行していたわたしは、この事件をなんとか戯曲か小説にしたいと考えた。そこで、なにはともあれ事件の詳細を知ろうと、資料集めを開始した。やがて、現地を自分の目で見、感じる必要があると思い至り、小繋にも行くことになった。
 訪ねたのは、ちょうどいまと同じ季節だった。太陽のまぶしい5月の晴れた日だったが、小繋の村はそれとは裏腹に、なにか重苦しい空気に包まれていた。そのときの異様な雰囲気を、わたしはいまでも忘れることができない。
 当時、事件は、入会権を認めた盛岡地裁判決が仙台高裁で破棄され、被告側によって最高裁に上告中で、小繋では村を二分して農民たちの対立がつづいていた。対立は猜疑心を生み、敵意のこもった用心深い眼差しが村を訪れる部外者にも向けられた。その視線を避けるようにして闘いの中心にいた山本清三郎さんの許を訪ね、話を聞かせてもらった。その晩は彼の家に泊めてもらい、翌朝、裁判で負けつづけながら実質解放させたという農地などを案内してもらった。
 こうして、戯曲か小説が生まれるはずだった。が、結局、資料調べだけに終わり、それ以上前に進むことができなかった。いま思えば、そのときのわたしの力量ではとても太刀打ちできるようなものではなかった。
 それから四十年余経ち、自身の祖先も小繋事件に関わったという野里征彦がものにしてくれた。本心を言えばちょっと残念で悔しくもあるが、しかし、作品を読んで、むしろこれでよかったと思っている。たぶん、いまでもわたしの手には余っただろうから。

「会」で小繋の人たちが紹介されたとき、代表して小繋訴訟の原告の子孫である立花健雄さんが挨拶に立った。その冒頭、彼は「残念な報告をしなくてはならない」と言った。そしてつづけて、郷里を離れている自分が知ったのも少し経ってからだと断りながら、小繋闘争の最後の体験者であった山本ヨシノさんがこの5月初めに亡くなった、淡々としてそう伝えた。

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 山本ヨシノさんは享年87歳。先立った山本清三郎さんの妻で、小説『こつなぎ物語』のカバー写真にある、あの清楚にしてたくましい女性である。