狐に取り憑かれそうになった婆さんの叫び

 近所に80過ぎの老夫婦と60近いひとり息子の、三人家族が住む家がある。この家に、先月来、頻繁に救急車が来る。いちどは消防車が来たこともあった。けれど、誰も運ばれた様子もないし、火が出た様子もない。
 そんなある日の夕暮れどき。爺さんが家の玄関先に立ったまま、惚けたように宙を見つめていた。たまたま通りがかったわたしの妻が変に思って声をかけると、返事がない。そればかりか、石のように固まって身じろぎひとつしない。どう見ても尋常ではない。心配になって家のなかにいる婆さんに声をかけると、婆さんは、「さっきからずっとこうなの、なにを言ってもだめ」と言うだけ。仕方なく妻は近くの交番に連絡して手を借り、とりあえず家のなかに戻した。
 その数日後、また救急車がやってきた。そして、今度こそ爺さんを担架に乗せると病院に運んでいった。新聞販売店に勤めている息子は、このとき仕事でいなかった。
 それから、婆さんに異変が起きた。体がおかしいと、たびたび救急車を呼んだ。そのつど救急車が来たが、やはり搬送することはなく、3、40分も車のなかにいると家に戻された。
 かと思うと、いきなり「狐が出た」と叫んで外に飛び出すことがあった。外に飛び出すといっても足が不自由な婆さんのこと、縁側から転げ落ちるようにして外に出ると、「こわいこわい」と叫んで、家の前の道路をいざってまわった。声は隣近所まで聞こえた。車が来れば通れなくなった。そのたび、ちょっとした騒ぎになった。

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 そして数日前の夕刻、また同じことが起こった。叫び声になにごとかとリビングの窓から外を覗くと、近所の人たちが婆さんを担ぎ上げて縁側に坐らせるところだった。わたしは遅れて駆けつけた。このときも息子は家にいなかった。
 婆さんは相変わらず、「狐が飛び出してきた」「こわいこわい」と繰り返すだけだった。遠巻きにした近所の人たちもどうしたらいいかわからず、ただ見ているしかなかった。そこで、婆さんの扱いを多少心得ていたわたしはあとを引き受け、みんなには引き取ってもらうことにした。
 わたしは婆さんの話にじっと耳を傾けた。婆さんは狐の恐ろしさを言いたて、効き目のない拝み屋さんをののしった。話は際限なかったが、やがてしゃべり疲れるとようやくおとなしくなった。そのあとだった。婆さんがふと、「お父さんがいなくなった」とつぶやいた。婆さんが「お父さん」と言えば爺さんのことだ。その爺さんは病院に運ばれたまままだ帰ってこない。だから、いないのは確かだ。が、婆さんが言おうとしているのは、どうもそういうことではないらしい。そこで、「お爺さんがどうかしたの?」と訊いてみた。すると婆さんは、「死んだ」とこたえた。驚いて「いつ?」と尋ねると、2日前だという。「お骨は? 」と重ねて問うと、婆さんは家のなかを指さした。
 ちょうどそこに息子が帰ってきた。そのまま息子に引き継ぎ、帰り際、念のため爺さんのことを確かめた。婆さんが言ったとおりだった。なぜ知らせなかったと言うと、息子はこたえなかった。町内では誰かが亡くなればすぐ回覧板で知らせる。それを知ってか知らずか、息子は町内会に知らせてなかった。
 息子は足に障害があった。それでもバイクに跨がり、朝晩の新聞配達や集金の仕事をこなしている。婆さんが心配でならないが、仕事を休むわけにはいかない。市の支援センターにも相談しているが、週数度の介護以外、望むような支援は受けられない。
 いまもまた、婆さんのなにか叫ぶような声が聞こえる。その合間に、狐を追い払おうとでもするのか、鉦をたたく音がする。息子は仕事でいない。
 それを聞きながら、ふと自分のこの先を考える。老いは誰にもやってくる。当たり前のことにそう思いながら、どこか他人事のようでもある。