被災地、被災者のことを記憶しつづける

 元日はきょうだい家族が集まり、新年会を開く。年初の恒例行事だが、今年は義兄が二人、風邪を引いたり用事があったりで欠席した。二人ともいい飲み相手だったから、正月の楽しみの一つが奪われてしまったようで、少々落胆した。
 ところが、始まってみればそうでもなかった。甥たちも姪たちもみんな親をしのぐ酒飲みになっていて、代わりに七面倒くさい年寄りの相手をしてくれた。おかげで寂しい思いをしないですんだ。そればかりか、甥姪たちの心配りが嬉しくって、口に運ぶ量がいつになくはかどってしまった。案の定、翌朝のつらかったこと……。
 じつはこの甥姪のなかに、原発関係者が二人いた。といっても、原発の事業所で働いている、あるいは働いていた、というわけではない。両人とも、勤め先の都合で原発の建設に関わる仕事に従事していたということである。具体的に言うと、姪のほうは設計会社の社員として東通原発の設計に、甥のほうはゼネコンの現場監督として大間原発の建設に携わった。が、二人はすでに退職した。姪は東通原発の運転開始を前に別の設計会社に転職、甥のほうも大震災を機に地方公務員に転身した。
 甥はもともと都市計画が専門で、それで建設会社に入った。学んだことが生かせればと考えてのことだった。ところが、やらされた仕事はマンション建設やビル建設の現場監督ばかり。あげくに、大間へ行かされた。
 その大間原発が震災によって工事中断に追い込まれた。彼はまた元のビル建設の仕事に戻った。そんなおり、地方自治体による被災地復興に向けた専門スタッフの募集を知った。さっそく応募したら、採用された。
 甥は原発の工事開始時期から現場監督として働いていたが、わたしから聞かされるまで、原発敷地内にある建設反対の拠点「あさこはうす」も、そこを住まいにしている小笠原厚子さんも知らなかった。原発建屋の間近にあって、しかも、事業者にとって目障りこのうえない存在なのに。

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      大間原発のすぐ近くに建つ「あさこはうす」

 驚くべきことだが、しかし現場では、あまり不思議なことでもないらしい。毎日宿舎と現場を行き来するだけで世間との接触は少ないし、たまに町に飲みに行くことがあっても工事関係者に都合の悪い情報がもたらされることはない。自ら積極的に求めなければ情報は得られないし、工事に関わっていればそんな余裕すらない。そうした世間離れした、原発建設事業体という大きな檻のなかに閉じ込められていた。彼ばかりでなく現場労働者の多くが、いわば情報隔離状態に置かれていた。皮肉なことだが、彼がいろんな情報を手に入れるようになったのは、震災によって現場を外れてからである。
 地方公務員に転身した甥は、いま、キャリアが生かせる仕事のできる喜びを感じている。一方で、仕事のあり方に不満も感じ始めている。その不満のいちばんが、役所のなかにある硬直的な体質だという。
 たとえば被災地の街づくり。整地して建物を建てるだけでなく福祉や医療などソフト面からの吟味が必要なのに、しようとしない。そうした専門スタッフや、あるいは住民をも交えた検討をすべきではないかと提案しても、領分ではないと退けられてしまう。そのうえ、明らかに無駄とわかっている事業を予算が残っているからといって組む。
 噂には聞いていたが、これほどひどいとは思わなかった。彼はそう言って嘆いた。
 これに、明確な返答をしてやれなかった。受け入れられなくても主張しつづけたほうがいい。そんな無責任な、激励にもならない言葉しかかけてやれなかった。あとになって考えれば、そんなことですましていい問題ではなかった。

 新年会は年々孫の世代の参加が増え、賑やかになっていく。賑やかすぎてときどき辟易することもあるが、それ自身、喜ばしい。しかし、震災を体験してからというもの、これと相半ばして別の感情が湧いてくるのをどうしても抑えることができない。
 それは思いがけずやってくる。幼児や乳児たちの嬉々とした表情を眺めていて、不意に津波でさらわれたらしい子どもたちの相貌が重なってくる。また、若い両親と子どもたちの戯れに頬を緩めていて、ふと、友人の、亡くなった二人の孫と両親である娘夫婦の顔と姿が、いくつものシチュエーションとともに思い起こされてくる。
 会ったこともない人々のそれらの顔や姿は、漠としていて明瞭ではない。けれども、この人々のなかに抱かれてある感情は深く、明らかなもののように感じられる。それはまた、自分のなかに点された、亡き人々のこの世にいたことの証のようにも感じられてくる。
 この感覚、感情を、いま大事にしたいと思っている。これを、今後もずっと持ちつづけていきたいと念じている。新年の抱負など取り立ててないが、あえて自分なりの思いをあげるとすれば、このことである。

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 昨年十一月末から十二月末にかけ、数度にわたって宮城県内の被災地をまわった。まもなく三年になろうとする被災地の現状を取材するのが目的で、主に、南三陸町から女川町、石巻市の半島部、さらに原発事故で高い放射性物質を降らされた丸森町筆甫地区を歩いた。
 今年はまた、年頭から釜石市に赴く。釜石市には震災以来何度も訪れているが、被災から三年後の釜石がどうなっているか、また被災者はどうしているか、改めてつぶさに取材してまわる。
 それらの取材内容は、いずれ雑誌に掲載される。