5年目の盆

 信仰心もないのに、継ぐ者がいなくて墓守を引き受けてしまった。といっても、もう25年もむかしのことだ。
 墓には妻の両親が入っている。その墓守の役目として、盆と彼岸の墓参りは欠かさない。家には遺された仏壇もあって、あまり熱心ではないけれどときどき花を供える。気が向けば線香も上げる。この春、益子に引っ越すことになって、仏壇もいっしょに引っ越した。
 だが、私はその墓に入るつもりはない。妻もどうやらその意向のようだ。娘たち家族には散骨にしてくれと言ってある。じつは、娘の師匠で義父母でもある成井夫妻も散骨だった。家には仏壇も写真も置いてない。当然、墓もない。
 といって、故人が軽んじられているわけではない。それどころか、遺族ばかりでなく知人たちにも、それぞれに特別の想いとして深く刻み込まれているようだ。命日になれば、子どもたちが散骨した海近くの岸辺に集い、故人を偲ぶ。故人は彼らの心の中に生きている。墓があるかないかは関係ない。もちろん、墓を否定するつもりはない。亡き人を偲ぶ形はいろいろあっていい。そう思うだけである。

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            写真はイメージ

 墓を守っていくというのは案外難儀なようだ。近くに住んでいればいいが、遠く離れてしまうと墓参りもままならなくなる。元気なうちはまだしも、老いて体の自由がきかなくなればどうしようもない。そうやって無縁になっていく墓が増えている、と聞く。
 この盆、墓のある寺から引っ越し先まで回向の案内が届いた。その末尾に、長く連絡が取れないと墓が取り壊される、と記してあった。印字だから、わざわざわが家に向けて書かれたわけではないと思う。時世の反映なのだろう。
 あの大震災で、家の墓は上半分が倒れた。それはしかしまだいいほうで、海岸のほうでは寺もろともことごとく流された。高台にあって流出をまぬがれながら、大半が倒壊してしまった墓地も少なくない。
 ところが、そうしたところへ翌年行ってみると、真新しい墓が建てられている。2、3年もしてみれば、流された墓地はべつにして、多くのところで墓が再建されていた。肝心の家がまだ再建もされていないのにだ。墓とは―先祖と言い換えてもいいが―、そうしたものなのだろう。いま現在がつらければつらいほど、そういう思いが強くなるのかもしれない。
 盆になると、郷里の寺にある百日紅を思い出す。ちょうどいまごろ、紅色の花をたくさん咲かせた。益子のいまの家にも百日紅がある。一本は紅色、もう一本は薄紅色の花を咲かせる。紅色のほうは樹齢40年はあろうか、巨木に成長している。その花が、いま盛り。見上げると、まるで亡き人の魂が宿っているようだ。

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           わが家の庭の百日紅

 それを眺めいていて、ふと二ヵ月ほど前に訪ねた福島が想われた。ついでに、一句浮かんだ。が、俳句は好きだが、詠むのはまったくの素人。そこをわかってもらって、笑われるのを承知で最後に紹介しておきたい。

     浜街道 主いぬ庭や 百日紅