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震災後文学について考える

 ずっと、震災後の文学について考えてきた。そのために、この間、そうした小説やそれらを論じた評論を可能なかぎり読むよう心がけてきた。とはいえ、発表された作品の数からすればごく一部にすぎず、それでなにかがわかったという気はまだしていない。
 自宅から東に数キロ行った先が大津波に襲われ多数の犠牲者を出したのを、おそらくは遠隔地にいてテレビで知った人々よりもかなり遅れて知らされたときの衝撃は、いまでは思い出すことさえできないほど途方もないものだった。それでも小説家なら、それをどういう形でか書こうとするに違いない。それが、しばらくのあいだできなかった。
 依頼されてようやくレポートのようなものを書いたのは、震災から一ヵ月ほど経ってからだった。三ヵ月後には書くことを目的に被災地を取材してまわり、その後、継続して被災各地を歩くことになった。が、書いたのは小説ではなくルポルタージュだった。小説はほぼ二年間、書いてこなかった。
 いま思えば、たぶん、書けなかったわけではなく書こうとしなかったのだろう。その底に、小説を書くことへのためらいがあった。
 震災後まもなくのころ、被災地を取材して歩いていて、被災者というよりむしろその周辺の人たちからたびたび強い非難や抗議を受けた。被災者の気持ちを掻き乱し痛めつけるようなことをなぜするのか。そんな言葉を浴びせつけられた。
 その気持ちは、被災者の身になって考えればよくわかる。わかりすぎるほどわかるから、そのたび取材しようとする意志が萎えた。それでも取材し書くことをやめなかったのは、被災地、被災者の現状を伝える、その意義のほうを優先したからだった。
 けれども、小説にはしなかった。なぜだろうか、と思う。震災を小説ネタに使いたくなかった、と思ったのかもしれない。いや、仮に書くとしても平常心と慎み深さが必要で、当時それもなかった、と思ったのかもしれない。いま振り返ってみて、その判断が正解だったかどうかわからない。
 日本古典文学が専門の木村朗子はそのあたりのことについて、著書『震災後文学論』で詳しく論じている。木村は2013年上半期の芥川賞の最終選考のなかで交わされた「震災の犠牲者を描くことの倫理性」に言及したうえで、次のように述べている。
〈小説などを書く行為というのは、作品として長く残るという意味での持続性はあるが、読み手がいなければ成立しないがゆえのもどかしさがつきものだ。ところが、被災地から遠く離れた世界の読者たちは、作品をこそ唯一の手がかりとして待ち焦がれているというのが、震災後の文学状況にはある。何が起こっていて、それについて作者は何を発信するのか。それだけが直接的な活動を確かめることのできない人々のよすがなのである。原発は世界中にあるし、放射能は大気をつたってまき散らされる。チェルノブイリがそうだったように原発人災は世界の問題である。〉
 つまり、震災を描くのは作家たるものの責任であるというのである。木村はその否定的議論の例として、先の芥川賞における、いとうせいこうの『想像ラジオ』をめぐる選考委員の発言を取り上げる。そのなかで木村は、高樹のぶ子が「蛮勇をふるって」推薦する以外に誰も推さなかったことをあげ、震災を扱った文学が日本では忌避されていると指摘する。

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 文芸評論家の斎藤美奈子も、木村の論にふれて、『想像ラジオ』にたいする芥川賞の選評を批判している。
〈多くの選考委員は、いろいろと言を弄しながらも判断保留。《ウエルメードぶりにあざとさを感じてしまう》(島田雅彦)、《作品からはヒューマニズムだけが抽出されることになった》(村上龍)などのマイナス評価に抗して、この作品を推したのは高樹のぶ子ひとり。いとうせいこうの試みを「蛮勇」と評しつつ、《今回の候補作中、もっとも大きな小説だったと、選考委員として私も、蛮勇をふるって言いたい。蛮勇には蛮勇をである》と彼女は書いた。『想像ラジオ』を推すことは「蛮勇」だったのである。〉(『ちくま』6月号)
 斎藤はそのうえで、「書くことの困難のなかで書かれた作品こそが、震災後文学というものである」という木村の言葉を引用し、彼女を擁護する。
 この二人の意見にわたしは同意する。加えて、自分にあった震災を小説に描くことのためらいの背景に、虚構であるがゆえの、被災者の反発を恐れる気持ちがあったことを認める。もちろん、いまは違う。
 しかし、自明のことだが、震災のことを題材にすればそれで事足りるというものではない。残念ながら、この間、そうした小説も少なからず読まされた。
 それらの多くは、ほとんどレポートに近いもの、あるいは、事実を知り得た情報で補強しているだけで、事実以上ではないもの、そしてこれがいちばんの難点だと思うが、虚構としての力を持っていないものであった。これらは、読者の想像力を喚起する力に欠けるという点でも共通している。
 震災を描くというなら、津波に呑まれて死んだ人、原発被災地から仮設に移住し自殺した人、そうした人々の生きた時代と生き残った人々が暮らす現在、さらに未来へと結ぶ流れのなかの、それぞれの場面で、そこにいる人間の姿こそが描かれる必要がある。たとえ短篇でも、それを感じ取らせるものであるべきだ。そのために、小説のあらゆる手法が使われていい。
 そこで、とくに印象に残った三作を紹介しておきたい。
 まず、いとうせいこうの『想像ラジオ』。これは、津波で木に宙づりになった死者がDJをやり、同様に死んだ人たちがリスナーとして参加するという設定になっている。そうした奇妙な構図のなかで、死者たちの生々しい声が次々と呼び起こされ、言葉が交わされていく。その生きた声によって現在が照射され、未来へと向けられる。
 彼らは家族のことを話し、民族の殺し合いについて語り、広島の夏を思い起こす。そして言う。「死者と共にこの国を作り直して行くしかないのに、まるで何もなかったように事態にフタをしていく僕らはなんなんだ。この国はどうなっちゃったんだ」
 あの大戦と原爆投下を経験しながら、大事なことはなにも解決してこなかったこの国のありよう。そうした社会と人々にたいし、彼らは、生きていた死者の声を「想像して下さい」と迫る。
 津島佑子の『ヤマネコ・ドーム』は、アメリカ兵と日本人女性との間に生まれた孤児たちの過去から3・11後の現在にいたるまでが、錯綜する時空のなか、頻繁に差し替わる語り手によって紡がれていく。全体が暗喩に満ち、死者と生者が交錯し重なりあって、大戦からベトナム戦争湾岸戦争チェルノブイリ、さらに9・11といった事件をよみがえさせる。
 人はなにをし、なにを欠落させてきたのか。小説はその問題のありかを問いただし、放射能に汚染された未来への生き抜く道を探る。

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 柳美里の『JR上野駅公園口』は、東京オリンピックの前年、福島県相馬郡から出稼ぎで上京した男の生きざまを描く。
 昭和8年の天皇と同じ日に生まれた男は、家族のためにけんめいに働くが、やがて仕事にあぶれ、ホームレスになる。その男が73年後の平成18年(2006年)、上野公園を車で通る天皇皇后のために住処をたたまされたうえ、それを見送ることになる。
 男は皇太子と同じ年の、若くして死んだ息子や家族を思いながら、自分の生きてきた歳月を反芻する。それらが時を超えて、自然が織りなすささやきのような響きで綴られていく。
 著者はインタビューにこたえて次のように語っている。
「私に一貫しているのは、居場所のない人のために書くこと。自分自身、家にも学校にも居場所がなかったし、日本人でも韓国人でもないという部分もある。居場所のない場所に立って書いているときに、居場所をなくして隅に追いやられている人を書きたいと思った」(「朝日新聞」2014年5月20日)
 昭和の時代とはなんだったのか。その時代を、いくつもの困難に直面しながら生き抜き、やがて居場所を失っていくことになった人々。その姿は、原発事故で郷里を追われた福島の人々の姿とも重なってくる。


 震災はいろいろな形で描かれていい。しかし、大勢の人々の命が奪われ、また将来にわたって生きていくことの不安がもたらされているとき、ただ薄っぺらに現実をなぞるだけでは文学たりえまい。
 現在と未来が、おびただしい死者とがれきの上にあるということ。また、それが原発事故と再発の恐怖の上にあるということ。これをいっときも忘れない。であればこそ、死者を「死んだ」人ではなく「生きた」人としてよみがえらせる。「生きた」過去によって現在を照らし、未来を見据えていく。表現者には、そうした創作態度が求められているのではないだろうか。
 そのために、考え得るさまざまな表現方法を使う。木村朗子の言を借りれば、「作家は小説や戯曲を書くのであって、新聞を書くわけではないのだから、何を書くにも遠慮はいらない」。虚構が真に力を得るのは、そういうときではないだろうか。
 わかっていないと言いながら、つい不遜なことを言ってしまった。でも、自分自身の問題として、いまそんなふうに思っている。