5月のはじめ、何年かぶりに益子の陶器市に行った。益子には陶器市に関係なく年に何度か訪れているが、まだ仕事を持っている妻を伴って行くとなると、どうしてもまとまった休みのときになってしまう。今回は知人も同行したいというので、この連休になった。
といって、焼き物を観て歩くというのでもなかった。孫たちをつれて飲み食いして歩いたり、娘やその仲間たちが開いている店に行って馬鹿っ話をしたりと、どうでもいいような時間を過ごした。しかし、それだけではつまらないから、成井恒雄さんのまだ大量に残っている遺作を鑑賞させてもらうことにした。
成井さんという人は自分の作品に無頓着な人で、登りで焼いたものを無造作にあちこちに放っていた。それらが、ずっと長いあいだ、枯れ木枯れ葉の下や土の下に埋もれたままになっていた。それを、成井さんが亡くなってから、息子の亙さんがせっせと掘りおこしてきた。
その数が半端でなかった。しかも、出来映えのいいのが少なからずあった。そうした器たちが、この間の遺作展でやっと日の目を見た。
今回観たなかでも、素焼きですばらしいのがあった。季節や自然を表す語をあしらった茶碗だったが、本焼きしないで素焼きのまま使いたくなるような器だった。実際、素焼きのまま譲ってほしいという人もいるそうで、亙さんも、いわば未完成の器をどうしたものかと迷っているようだ。素焼きのままでは水漏れして使用に耐えないし、本焼きすれば成井さん以外の人の手を加えることになる。どっちにしても、成井さんの気持ちとは違うような気がする。
ほしいと思っていたもので成井さんの生前には手に入らず、亡くなってから手に入れたものがある。上の写真にある徳利で、亙さんに頼んでみたところ遺作のなかから探し出してくれた。小さいほうは正一合、大きいほうは一合半入る。ぐい飲みはずいぶん前、成井さんからいただいたものだ。
上の写真の湯飲みもそうだ。わたしは成井さんの糠白の風合いが好きで、そうした湯飲みをまとまった数で持っていた。だが、先の大震災のときすべてを失った。今回、それとはやや違うけれど、似たような湯飲みを手に入れた。
徳利もそうだが、成井さんの糠白は格別にいい。写真が拙くて、そのよさを十分に伝えきれないのが残念でならない。
帰りに、今回もまたたくさんのもらい物をした。そのなかの一つが上のぐい飲み。亙さんがわたしのために買っておいてくれた。穴窯で焼いたものだそうだが、灰被りによる窯変がいい。が、作者の名前はうっかりして聞き忘れた。
このぐい飲みは、一杯で半合ほど入る。わたしにはちょうど手頃な大きさで、手にもなじんで酒がおいしい。それはいいとして、そのせいで飲み過ぎてしまうのには困ってしまう。